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【映画レビュー】ナミビアの砂漠

映画『ナミビアの砂漠』が巷で「すごい」と話題になっているので、観てきた。

特に趣味も目標もなく、都内の脱毛サロンで働き、“優しい“彼氏に身の回りの世話をしてもらいながら、繰り返しの毎日をぼんやりと生きている主人公のカナにとって、
日々のあらゆる出来事は退屈で、空虚で、決して満たされることがない。

自分の人生に本気になれず、自分の人生をどこか他人事のように感じてしまう、
そういうタイプの人にとっての人生の「リアル」が、カナの表情や仕草に表象されている。これを可能にしているカナ役の河合優実の表現力がとにかくすごい。

2020年代の今このときを生きている若者の現実を、ありのままに映しとった作品として、強烈な時代性を纏った映画だと感じた。



ここからは、印象に残ったシーンについて、思いつくままに書き連ねてみる。
※以降、重大なネタバレを含みますのでご注意ください


・喫茶店にて。友人イチカの「友達が自殺した話」に、のめり込めないカナ。適当にそれっぽい相槌を打つものの、カナは後ろの席の男性グループが話している「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話に気を取られている。”友人に自殺されショックを受けるワタシ”に浸るイチカと、話を聞いてあげるよき友人を演じるカナの空虚な会話。イチカは本気で自殺した友人に同情しているわけではなく、カナも本気でイチカの話に向き合っているわけではない。まるで自分自身を外側から眺めているかのように、求められている役割を演じることは、カナにとって普通のことである。

・創作に没頭する彼氏のハヤシに対して、不満気な態度をとるカナ。カナが「お腹すいた」というと、ハヤシはカナのお腹に耳を当てる仕草をする。瞬間、カナはとてつもない嫌悪感を感じ「最低」と激昂する。
このシーンは、妊娠を経験した一人の女性として非常に共感した。カナは元彼との間にできた子供を中絶していて、その時のことはほとんど描写されていないので想像の域を出ないがおそらく想定外の妊娠で自分の身体が自分のものではなくなるような恐怖感や、中絶という形で生命を殺してしまうことへの罪悪感などが心の奥底に沈殿していたと思われる。
彼女のお腹(子宮のあたり)に耳を当てるというハヤシの行為は、カナにとって一番触れられたくないセンシティブな部分に土足で踏み入るような行為であり、生理的に受け入れられなかったのではないかと感じた。その後、ハヤシとその元カノにも中絶の過去があったとわかり、ハヤシがそれを創作のネタにしている(と感じられる)ことにカナが激しく怒るのも、カナ自身の葛藤や罪悪感を踏みにじられているような気持ちだったのではないかと思うと、激しく殴りたくなるのも分かるというものだ。
あまり性別で決めつけるのはよくないと思いつつ、この一連の妊娠中絶にまつわるシーンは、女性監督だからこそ表現できたシーンだと思った。

・映画の終盤、ハヤシと大喧嘩している最中、ふいにワイプで超現実空間にいるカナがスクリーンに映し出される。その空間でカナはランニングマシンで走りながら、ケンカの様子が写っているスマホをぼんやり眺めている。
まるで暇な時にスマホでナミビアの砂漠の野生動物を眺めていたのと同じように、スマホの画面に映る自分の姿を眺めている。カナにとって人生とは、まるでスマホの画面に映るナミビアの砂漠と同じように、ただ外側から眺めているうちに過ぎてゆく退屈なものである。

・精神が不安定になりカウンセリングを受けているカナ。目の前の箱庭に一本の樹のオブジェを置くと、またしても超現実空間がカナの脳裏にあらわれる。そこにはアパートの隣人・遠山がいた。
遠山は「3年たてばほとんどのことは忘れて、100年後には全員死んでる」というようなことを言う。遠山との対話を通じて、少しだけ心がほぐれるカナ。そこからまたハヤシとの喧嘩のシーンに戻ると、暴れ疲れたカナは徐々に落ち着きを取り戻す。そしてまた日常は続いてゆく。

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