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”わかりやすい説明”が、アート作品をつまらなくする?

「わかる/わからない」の視点で、アートに関わるお話を、思いつくままつらつらと綴っています…。

 展覧会でアート作品を鑑賞する際に、「キャプション(説明書き)をしっかり見る/見ない」は、定番の話題の一つです。
 「モチーフの意味は勿論、作家や当時の時代背景などを知った上で、初めて作品と深く関わることができる」という意見もありますし、「見たまま、感じたままに、予断なく受け入れることで、作品の本質を味わうことができる」という意見もあります。
 私自身は、どちらかに決めなくてもいいんじゃない派なのですが、「なんじゃこれ?」という作品を前にすると、しっかりキャプションを読んで、改めて「本当かなぁ…」なんてことを考えたりしながら、鑑賞を楽しんでいます。まぁ、キャプション読んでも、さっぱり「わからん」というケースが多いのですが…。

  最近は「説明責任」というのが随分と拡大認識されているようで、「私のわかるように説明してくれないと困る」と、聞き手から話し手(≒説明する側)に注文を付けるのが当たり前になっています。でも、これって「わからない」を楽しむ機会を失っているよ~! と声を大にして言いたいです。

 16世紀に西洋で”マニエリスム(後期ルネサンス)”と呼ばれる様式がアートの世界で主流となりました。「わざとらしい!」という作風に加え、「何を意図して描いているのかよくわからん!」作品ばかり。「わかりやすさ」が好まれる今の時代なら、まったく見向きもされなかったかもしれません。これらの作品を好んだのが、当時作家のパトロンとなっていた宮廷。「この作品からこんな”寓意”を私は読み取りました…(どうだ凄いでしょ!)」という、まぁ知的遊び心を満たしてくれたわけですね。
 *寓意(ぐうい):他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすもの <広辞苑 第三版>

 知的遊びというと、それだけで嫌がる人もでてきそうですが、これって意見をちゃんと伝えあい、認めあうことでもあると思っています。相手の考えを「説明」してもらって「わからん!」と拒絶するのでもなく、「わかるように説明してくれ!」と自分の枠組みに押し込もうとするわけでもない。「わからない」を共有しながら、そこに知的で面白いやり取りが成り立つ、そんな楽しみなのではないかなと。
 キャプションを見ても見なくても、作品を通じて「何だろう、これ?」と自分と対話するだけでも、十分に楽しい時間が過ごせると思っていますが、いかがでしょうか。

寓意愛の

《愛の勝利の寓意(愛のアレゴリー)》
ブロンズィーノ 作
1540-1545年頃

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