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自己の発見ー視覚を考えるー

16時のバスに乗り込み、三日間の帰省を終える。特に誰とも会わなかった。みんな忙しそうだ。

一日中家にいても何なので、昨日も喫茶店に時間を潰しに行った。帰り道、高校時代にバイトをしていた居酒屋に一人で立ち寄ってみたが、店は閉まっていた。そのまま帰る気にもならなかったので、ふらっと綺麗なカウンターのお店に立ち寄った。マルドゥークというお店だそう。

リンクをうまく貼れなかったのでお店のアカウントの写真を

グラスワインを数杯、料理を2品ほど頂いた。お店の方たちも気さくに話し掛けて下さり、とても楽しい時間だった。また地元に帰った時には訪れたいな。皆さんも松江を訪れたときは是非。ほっこりした気持ちで帰路につく。

松江大橋で宍道湖向きに見出しの写真をパシャリ。高校時代の帰り道も同じような構図でよく写真を撮ってたなと思いだす。周囲の静けさからは想像もできない鮮やかさ。

なんだか下品な色合だ。これまで何度も見てきた光景だが、こんなことが心に浮かぶのは初めて。単純に視覚だけで感情が動きにくくなったのかなんなのか。少し種類は違うが、先月の終わりにも似たような体験をした。

瑠璃光院にて撮影

この写真と同じような構図のものを見たことがある方も多いだろう。京都の瑠璃光院である。ここでの体験において、見出しの写真と似ていると言った点は、「下品と感じた」という点では勿論ない。「視覚だけで感情が動きにくくなった」と感じた点である。

純粋に瑠璃光院のこの場所に座れば、夢と現の狭間の別世界に身を置いているかのような空間を体験できるだろう。その中で雑念が消え去るのか、或いは様々な思考が頭の中を駆け抜けるのか。そこに感情の動きがあると私は考える。

一階は比較的落ち着いていた

しかしながら今や大人気スポットの瑠璃光院。とにかく人が多く、賑やかだ。ましてや室内の狭い空間。私はその状況下では、本当の意味でこの光景の中に身を置くことが出来なかった。視覚情報は全く同じはずなのだが。

比叡山境内にて撮影

対照的だったのが瑠璃光院の数時間前に訪れた比叡山延暦寺。背の高い木に囲まれた静寂な境内の中に響くのは、鐘の音や鳥のさえずり、水の流れる音。はるか昔と同じ音。同じ光景。そう考えるとなにか感慨深さを覚えた。

水の音が周囲に響く

これら二つの場所体験を振り返り、やはり私は視覚だけで感情は動きにくくなったと、自分の中で勝手に結論付ける(感情が動かないは語弊しか無さそうだが、代わりの言葉が思い付かないからこのままでいいや)。噛み砕くと綺麗な光景だけで感動しにくくなったといったところ。

「人の目は動物だ」と言われるように、視覚は人間性を表現する器官でもある。それに比べると、その他の感覚は、本能的で動物的な器官とされる。だから視覚と科学が、結びついたのかも知れない。この対比は、従って、客観と主観、理性と本能、人間と動物、あるいは意識と無意識などにも及ぶ。

小松和彦 編『日本人の異界観』22ページより

過去に触れた本を漁り、視覚にまつわっており、且つ面白かった文章を掘り出す。なるほど、私が置かれている現在の状況は主観的、本能的、動物的と置き換えることができる。

なにか社会的に創られた人間性だけではない。私という独立した存在、自己の発見とでも言うべきか。ポジティブに捉えていいだろう。

これ以上なにか書こうにもどんどんズレていく気しかしない(既に...)。言わんとしてることが少しでもお分かり頂けたら幸いです。感覚的にはまだまだ書き足りないので、上手く言語化出来るようになったらまた挑戦します。

拙文を最後までお読み頂きありがとうございました。


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