三年間の断片的な記憶

遠距離通学

 登校は太陽が昇る前に始まり、下校は太陽が沈んだ後に終わる。特に冬場。インナーを着て、制服を重ね、アウターをまとった後に、厚手の茶色いコートを羽織る。ネックウォーマーも忘れない。
 母親が作ってくれた昨日と変わらない内容の弁当にふたをして小さな黒色のカバンに入れ、さらにそれをリュックに入れる。
 解ききっていない数学の課題が挟まったファイルが二つ。物理基礎とコミュニケーション英語の教科書。今日の小テストの範囲が載っている現代文の用語集。電子辞書。プリントを挟む穴あけパンチ。総合探究で使うパソコンを入れるケースには、鏡音リンのステッカーが貼ってある。
 重いボックスリュック。それを勢いのまま担ぎ、その勢いを、物理的にはもう死んでいるけれど、精神的には生かしたままで、私は午前五時半の冬の寒空の下へ飛び出す。
 最寄り駅まで十分とちょっと。夏場なら朝陽が山の端から頭をのぞかせるけれど、冬場はそんな気配は何一つなく、まだ星が見える空と、冷気を含んだ風が容赦なく頬を叩く中、私はネックウォーマーに顔をうずめ、口を固く結び、駅までを目指してただ歩く。
 やがて駅へ向かう途中で県道に出る。普段はひっきりなしに車が通り、横断歩道があるところでないと渡りにくいその道は、まだ太陽が顔を出さないとなれば、ひっそりと静まり返り、ときおり一台の大型トラックが横断歩道を通過していくだけになる。
 県道を横切り、店と店の間にある小道を歩いて駅に着く。車掌は数年前からおらず、ただ定期を当てるだけの機械と切符を売るための機械、自販機、指名手配犯の写真とわずかなベンチだけがある。
 跨線橋を渡って向かいのホームにたどり着くと、人が四、五人ちらほらと、まだ紺色の滲んだ空気の中で、立っている。たいていの人間は黒い衣類をまとい、私と同じように首を外気からひっこめながら、ホームの下の方を覗いている。
 私は先頭から一番目に乗るために、ホームを先まで歩く。駅のホームから乗りやすい、真ん中の車両よりも、わざわざホームの端まで歩いて先頭に乗った方が、あとから入ってくる人間の数が少なくてあまり混まない、気がするから。
 電車が近づいていることをアナウンスするピアノの音色は冬の空気に触れ、なぜかその音は夏場より乾いて聞こえる。電車がホームに滑り込み、私はボタンを押して扉を開け、車内に乗り込むと、東側にある二人掛けの席の、その窓際に座る。
 電車が走り出す。私はリュックの中からやり残した数学の課題を取り出し、膝に乗せ、横にしたリュックの上で対峙し始める。
 ふと、顔を上げて窓を見れば、空中に広がっていた紺色はさらに霧散して薄まり、太陽が発する金色がわずかながらに、青みがかった空気の中へ溶けだしている。
 じっと景色を見つめていると、太陽が発する光はどんどん風景の中でその存在を主張し始める。ぼやけていた物たちが、くっきりとその輪郭を帯び始める。車窓の向こうに広がり続ける田畑。そこへときおり現れる大きな用水路の水面が、今日生まれた新しい陽ざしを拾い、白色の小さな光の粒をきらきらと水面で露わにする。
 手元を見る。まだ問二の途中までしか進んでいない。けれど、上り続ける太陽が、早朝の目覚めにより残存している眠気を思い起こさせ、また、列車内の過度に暖められた空気が全身を覆い、やがてまぶたが重くなる。
 私は右手に持っていたペンを窓辺に置き、ファイルを閉じてリュックにしまうと、今度はリュックを縦に抱いて、そのまま眠りに落ちた。
 再び目を開けると、車窓の向こうは一変し、灰色の建造物が立ち並んでいる。目に見えて増えた乗客を乗せた列車は、建物の間を縫うようにして走り、目的地を目指す。
 スーツ、制服、ときおり私服。冬の電車に乗り込む人間はたいてい黒っぽい。ドア付近の壁に寄りかかって談笑する学生の笑い声以外、列車内は異様なまでに静かで、走行音のみが私の鼓膜を震わせる。
 昇りきった太陽の新鮮な陽ざしと薄水色の空を瞳に収めながら、私はポケットから有線のイヤホンを取り出し、スマホに刺す。
 Spotifyを開き、画面をスクロールしてBUMP OF CHICKENが表示された画面に移動し、横にある再生ボタンをタップすると「Butterfly」のイントロが流れ出す。溢れかえった人と、煮詰められた暖房によってよどんだ空気の中で、血液が循環するようにメロディが流れ出す。
 列車は前に進み続け、だんだんと建造物が空へ空へと伸びるようになる。終点の駅までたどり着けば、人は一斉に列車から吐き出され、みな一様に改札へと向かっていく。
 人が作る流れに従い、その流れを遮らぬように改札を通り抜け、東口に出ると、どのバス乗り場も長蛇の列で私を出迎える。私は十番乗り場(現在は九番乗り場)のバス停に向かい、列に加わると、今日の現代文の授業で出されるはずの用語集の該当ページを開く。
 しばらくしてバスが流れ込む。列がぞろぞろと前へ進み始め、ちょうど私が乗り込んだところで扉が閉まった。
「奥へ詰めてください」
 運転手の声に従い、人が奥へ奥へと移動し、私はバスの壁に備え付けられた横長の座席の真正面へと移動する。手すりに掴まりながら、片手で用語集を見つつ、バスが揺れ動くタイミングを見計らって、サッと次のページをめくる。案外時間はない。視線を上から下へ。右から左へ滑らせるようにして、用語集を見つめていく。
 そのうちバスは大きな川を渡る橋へと続く、大通りに入り、高く華やかな建造物が窓の向こうの視界を占めるようになる。私は用語集からふと顔を上げる。
 ブランド物の広告モデル。飲食店の暑苦しい看板のフォント。通りを自転車で駆けぬけていく学生たち。ぼんやりと視界に入るもの全てが、一つの情報として成り立ち、ただ見ているだけで言いようのない充足感を私に植え付け、私は用語集を見なければいけないのに、流れ去って行く景色を、惚れ込んだように見つめてしまう。
 やがてバスは大通りから橋を渡って寺と住宅街と商店が立ち並ぶ通りに入り、ぐんぐんと長い坂を上り続けて私の目的地を目指す。
 学生で満杯だった車内も、目的地の二つ前が、別の高校の最寄りのバス停とあって、そこで人が八割から九割降りる。ごっそりと人が消え去った車内は、開け放たれたバスの入り口と出口から現れる新鮮な冬の空気によって浄化され、生まれ変わる。
 しかし生まれ変わったバスを堪能できるのも束の間で、バスはあっというまに私の目的地へとたどり着いてしまう。

 一方で、帰りのバスはテスト期間以外、さほど混んでいる印象がない。それは、乗る人の帰る時間が不規則でバスのどこか一本に集中しないというのもあるだろうし、帰りのバスの本数が多いというのもあるだろうし、私が帰りのバス内はいつも寝てしまっていて、単に混んでいる様子を覚えていないだけというのもある。
 一限目から七限目までを乗り越え、眼球を中心として、疲労を体全体に負った私は、空調で暖められたバスの座席に座った途端、意識が下方へと落ちてしまう。
 体感的にはまばたきを一度しただけのはずだけれど、その意識とは裏腹に時間はしっかりと経過し、再びまぶたを持ち上げれば視界は、学校付近の冴えない通りから、今朝、視界を奪われた大通りへと一変している。
 冬の大通りは並木道に白色のイルミネーションが施され、通りの中心にある大型商業施設の前には大きなモミの木が立っており、バスに乗っていた大半の人間は、そのモミの木の前のバス停か、さらにその一つ先のバス停で下車する。私はもちろん、終点の駅までだ。
 雨でぬれた窓は、街並みが醸し出す赤や黄色や青色の光を、滴り落ちるしずくの中で抱擁し、窓際に落ちる、ひとつの星屑のようになっていく。街並みの明かりは誰も拒まず、バス内の暖房と相まって、私はある種のあたたかさを覚えるけれど、窓の向こうはまだしっかりと冬の気配が残っている。
 頭上から落ちてくる暖かい空気に触れられ、私は再び視界を暗闇の中へ落としていく。
 次に目が覚めるのは大抵、運転手の少し苛立った声による。運転手は低くトゲを含んだ声音で私を呼び、強制的に目覚めを呼び起こす。私は座席から飛び上がって、バスの定期を専用の機械に押し、逃げるように車内を後にする。
 東口に通ずるまでの駅の通り道は大抵その路面が濡れ、街頭や駅自体が発するぬくい光を反射させている。鼓門のそばを素通りして、駅に入ると、低く反響する雑踏が私を包み込む。
 どこから来たのかも、何をするのかもわからない人間たちが、一瞬だけ交差し、言葉一つ交わさないまま過ぎ去っていく。話し声、靴裏が地面をたたく音、スーツケースのキャスターを転がす音。すべての雑音が一体となって、大きな駅特有の和音を作り出す。
 駅にいるとどんな自分も受け入れてもらえるような気がする。ずっとこのまま駅にいてもいい。そうして、流れていく人と物をじっと見つめ、私もこの駅の一部になってしまいたい。けれど、外はとうに真っ暗で、その暗さは私が家路に着くことを要求してくる。
 私は定期を押して改札を抜けると、乗り場を確認してホームまでの階段を上り、すでに定刻を待っている電車に乗り込む。
 車内の暖房はバスよりも暖かく、むしろ暑いほどだ。私は羽織っていたコートを脱いで、膝上にかけると、さらにその上にリュックを置いて、バスの中同様、眠りに落ちる。
 電車が動き出す音が聞こえる。ぼんやりと上げたまぶたの向こうでは、暗闇の中にぽつぽつと、店の明かりが灯っているだけで、私はまた目をつむる。やがて目に見える明かりは少なくなり、今朝視界に収めた、延々と続く田畑が、暗闇の中に溶け切って眠りについているのを見届けてから、列車は目的地に着く。
 私の一日は小さな旅で始まり、小さな旅で終わっていく。

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