『ドラッカー×社会学』巨大するめが贈られてきました

 筆者の一人からネットで知り合ったご縁合ってご恵投いただきました。
読んでみたら、巨大するめ。噛めば噛むほど味が出てきて止まりません。

しかも、本文中にあるように、丁寧な一筆箋が添えられて。

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触発されて、まとめでも、書評でもなく、湧き出てきたことを。

 あえて筆者に挑戦するなら、筆者の意図を解体してこの本は、
4章→6章→2章→1章→3章→5章
と読み進めることをお勧めします。
無論ドラッカーを熟読していたり社会学に精通している方なら筆者の意図通り1章から読み進めるといいでしょう。

すごく奥行きのある本なので皆様の好きなように味わうのがいい本です。

なぜ社会生態学が鍵概念なのか

 ドラッカーの研究を規範経営学といい、ドラッカーはその第一人者であることは前にも書きました

 経営学の第一人者加護野忠男先生は「規範的経営学は,アメリカで開花した.それを成功させたのは,欧州大陸の知的伝統を引き継ぐドラッカーである.ドラッカーは,規範を抽象的な基本前提から導くというドイツ的な方法ではなく,具体的なコンテ クストの中で規範にかかわる問題を議論した,ドラッカー自身は,自らの経営学を規範的と呼んでいるわけではない.だが企業の目的は利潤の追求ではなく,顧客の創造であるという彼の有名な主張は,証拠を基にしたものではなく,彼の信念から導かれた規範的な主張である.」と評価している。そのうえで、「今後,経営学で規範的な議論が行われるとすれば,ドラッカーが採用したように,具体的なコンテ クストにおける経営規範について議論するという方法を用いて行われることになるであろう,このような具体的な議論が意味を持つ理由もある.規範は,最上位の目的だけではなく,目的一手段連鎖の下位にある具体的な手段の選択にもかかわることが多いからである.」と理論としてのみならず実践としても高く評価している。
出典:加護野忠男、企業統治と規範的経営学、日本情報経営学会誌 2014 VoL34.No.2

 ここで注意を要するのは、規範という言葉です。加護野先生は「出光佐三氏は,「黄金の奴隷になるな」という言葉を残した人物として有名だが,この言葉と並んで「モラルの奴隷となるな」という言葉も残している.氏のいうモラルとは,戒律で人々の行動を律し ようとする方法である.かれは,ルールで人々を律しようという経営を否定し,人々の自然な道徳的判断力を信頼しようとした.」と指摘しています。

 この「人々の自然な道徳的判断力を信頼」するのが規範経営学です。
戒律とは~してはならないという否定形で書かれているのが大半です。
この理解があれば本書の師玉の一言がしみいると思います

自然生態の世界には、そもそも否定の語法が存在せず

なんと素敵な言葉なのでしょう。

社会生態学と倫理

 和辻哲郎は「人間共同態の存在根柢すなわち人間存在の理法」(『人間の学としての倫理学』)を倫理と定義しています。
 ベルクはこれを受けて「人間関係は、多かれ少なかれ、良かれ悪しかれ、とにかく倫理的なものですから、風土性という「人間存在の構造契機」こそ本質的に倫理的であり、公共的でもあるはずといえる」として、ユクスキュル(Jacob von Uexkull)等々と結び付けながら語っています。

出典:風土性に立った倫理と公共性
国際日本文化研究センター客員研究員 オギュスタン・ベルク(Augustin BERQUE, 辺留久)千葉大学 公共研究 第3巻第2号(2006年9月)


 このように考えてくるとなぜ社会生態学で規範経営学なのかが分かりやすくなるかと思います。

さらにこの本の師玉の一言は

エビデンス至上主義があまり気づいていないように思えるのは「エビデンス自体が、ある特定の過去の時点の説明」ということです。過去についての記述であって、未来については何も語っていないということです。

 以前「経営学は科学であり統計によるエビデンスに基づかなければならない」という不見識な大学院生がでてきて腰を抜かしたことがあります。
 科学というからには規則性が現象そのものに内在しないとなりません。つまり検証したことと同じ現象が繰り返し発生しなければならないのです。

 経営者とは、過去への言及に固執するのもなく過去の栄光にすがるのでもなくましてや過去の業績に胡坐をかくものでもなく未来を構想するのが字義通りですから。

 例えば2019年1月~12月までの居酒屋の売上高を統計手法により傾向をだして2020年1月~12月の予想に基づき経営計画を立てた結果なにが起きたのでしょうか。あるいは2005年度のガラケーの売上データーから・・・
 エビデンスは経営においてかけらほどの役に立つことはないのです。

 さて、元に戻り、この師玉の一言はさらなる指針を我々に与えてくれます。先ほど引用した加護野忠男先生の

【彼〔ドラッカー〕の有名な主張は,証拠を基にしたものではなく,彼の信念から導かれた規範的な主張である】


 そう、エビデンス至上主義とは、自己の責任逃れに外部を頼ることにほかならないのです。

 心理学者の倫理研究には、「規則をそのままに遵守し、いわば言いつけどおりに生きることは、そのままでは決して倫理的な態度とは呼べない。それは単純に権威者の命令に従っているだけのことである。」
「自分が普段から無自覚に従っていたルールを再検討し、善悪を判断するためのより一般的な原則を求め、それを行動に反映していく態度にはかならない。それは、人に対してどう接するか、どういう態度をとるか、について自分自身で考え、自分で決定していく過程である。すなわち、倫理とは善悪に関する自己決定なのである。」とあります。

出典:蘭千壽・河野哲也 編著『組織不正の心理学』慶應義塾大学出版会

どこをどう読んでもドラッカー先生のご主張は規範を示したもの。

 社会の中で未来を構想し、自己責任として引き受ける倫理が経営者の役割
それがひしひしと伝わってくる名著です。

蛇足に一言多い

 で、ここで止めておけばいいのに・・・
いい本に出合うと触発されてもっと求めたくなる。

 せっかくドラッカーさんとポランニーさんのルーツにまで触れたのなら、知識概念が両社は「アハディーヤ (絶対一者性の領域)」(井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書P.119)が共通ではないかと。ここまで触れてほしかった。


 最もこの観方は私の観点でありこの本の狙いである読者にはまったく不用どころから混乱を招くだけなので蛇足です。

 まあ、このことは次の公刊論文で書くことにしましょう。

 なのでいつも「一言多い」とよく言われます。果たしてこれは気質なのか強みなのか・・・


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