米国に経営学はない。ドイツにも経営学はない。

「米国に経営学はない。ドイツにも経営学はない。ドイツのそれは経営経済学である」(脚註* 加護野忠男『経営の精神』2010『日本型経営の復権』1997)

画像1


神戸大学本館の前庭に、「我が国の経営学ここに生まれる」という石碑があります。
令和元年元旦(2019年5月1日)に自分の原点を訪問していろいろとこの石碑と対話していました


びっくりした米国の経営学という発表

 大昔に、とある学会で「米国の経営学では」という発表を聞いて腰が抜けるほど驚いたことがありました。自分の知らない間に米国で経営学が生まれたらしい。そこで質問をしてみた(以下応答の概略)。学会でもあるのに会場は二つの反応にわかれました。失笑と冷笑に。

私「不勉強で申し訳ございませんがいつの間に米国に経営学が生まれたのでしょうか?」
発表者「は!? あなたはAcademy of Management(一般には、米国経営学会と訳されている)もご存じではないのですか?」
私「そうですか。私が不勉強で申し訳ございません。教えて欲しいのです。あなたは社長のことを英語では何と言うのでしょうか?」
発表者「・・・」

 この手の誤った知識で時間を浪費しないために我が国の学会では大学の研究者以外を受け入れないところが多いのですがこの学会はこの手の発表をしてしまう人を受け入れているのです。会場も失笑組が研究者以外、冷笑組が研究者でした。

 そう、erという接尾語は何かをする人を意味するのですがManageをする人がManagerなのです。マネジメント層というカセット効果のいい加減な言説を除けばそれは経営者やその教育を意味しないのです。せいぜい現場管理者や管理職でありそのための学問がManagementなのです。

 加護野先生は上述の後に、 「マネジメントとは、馬の飼い慣らし方の意味がある」(脚註*加護野忠男『経営の精神』2010『日本型経営の復権』1997)と喝破されてます。これは語源学から正しい英語理解です。

 manage (動詞)とは語源から、馬を訓練する、馬術、フランス古語において馬術学校や馬術、イタリア語のマネジオは、馬を操るを含意している。  manege (名詞)とは語源から、馬術学校における、馬を訓練し、訓練された馬にふさわしい動きをさせ、馬を操ることを含意する。
 こう考えるとmanagementの教科書がホーソン研究(Hawthorne experiments)という工場での飼い慣らし方から始まるというのも納得がいきます。

ドラッカーはちゃんと分けていた

 膾炙されているドラッカーの名言“Management is doing things right; leadership is doing the right things”をみても、マネジメントとそれ以外の独立する概念が存在することは明らかです。

 ちなみに、この名言はドラッカーのみならずWarren Bennisではないかという疑問をお持ちの方もいらっしゃるかと。確かに、ドラッカーは1996年にThe Effective Executive: The Definitive Guide to Getting the Right Things Doneという本を上梓しています。一方でWarren Bennisは1994年の本には明確に“Leaders are people who do the right thing; managers are people who do things right,”と記載しており(Warren Bennis, (1994) An Invented Life: Reflections on Leadership and Change,p.78)。その原型は1989の著書On becoming a leaderです。ここではこの二人のオリジナル争いに終止符を打つことを目的としていないのでStephen R. Covey (1989)にあるように両者の合作としておきましょう( The 7 Habits of Highly Effective People : Powerful Lessons in Personal Change p.108)


manager概念とは

 Warren Bennisが亡くなった1994年の追悼文を読むと先生の偉大さが分かります。その1989の御著書On becoming a leaderには概念分けをするために12の違いが列挙されています。そのうち象徴的なものを以下に選び出してmanager概念を明らかにしていきましょう。

The manager administers, The manager is a copy, The manager maintains, The manager relies on control, The manager has a short-range view, The managers have their eyes on the bottom line(収益), The manager imitates, The manager is the classic good soldier, といくつか割愛しましたが続いた最後がThe manager does things right;the leader does the right thing.


 これでマネジメントが明確になったかと思います。以前この話をしていたら大学院生から驚く発言が飛び出しました。「米国の主要なビジネススクールではドラッカーの本をほとんど読まないし講義もないし研究もまったく行われていない。故にドラッカーなんて学問でも何でない。米国では相手にされていないから、そんなものを引用したりするのは研究では駄目なのでは」と。事実の一側面をとらえた針小棒大な誤った認識と指導しました しかし、ある意味2008年以前の米国の問題点を正しくえぐり出す発言であるとも思いました。

WEF: Is the era of management over

 2017/12/07 ダボス会議という世界で有名な会議を主催している世界経済フォーラムはIs the era of management overという記事を発表しました。詳細はリンク先を呼んでいただくといて、managementが産み出す付加価値は減少しており、むしろ、革新を制約し、秩序を追求するので創造性を抑制していると指摘しています。

経営学には規範探求と手段選択探求がある

 「我が国の経営学この地に生まれる」とはどういうことでしょうか。まず、上記ではManagementと経営学は異なる概念であることを明らかにしたので、以下は経営学とは何かを加護野先生の言により明らかにしていきましょう。

経営学は、よいことを上手に成し遂げる方法を探求する学問である。
(加護野忠男(2014)『経営はだれのものか』p.238)
この一言に尽きます。

 加護野(2014)は、現代の経営学は、「よいこと」よりも、「上手に」という側面に焦点を絞ることによって進歩してきてきた。「よいこと」は、経営の目的の選択にかかわり、「上手に」は手段の選択にかかわる探求である。と(加護野忠男『経営はだれのものか』p.238)


 とても重要な点なので、論理的に書き直すと、経営学とは、
よいこと かつ(∩)上手に
という二要素の交わりを探求する学問です。

 そして、
「よいこと」とは、経営の目的の選択。
「上手に」とは手段の選択。
 と定義されます。

よいこと うまく


 これをマトリクスにすると上図のようになります。これは恐ろしいことを示唆しています。つまり、「よいことではない」∩「上手に」という領域が存在することです。例えば闇社会のHit personは「殺人」を「上手に」行う人をいいます。これが米国のビジネススクールが引き起こした大問題と直結していくのですがそれは後ほど。

規範的探求とは、経営において「よいこと」を探求する学問。
手段選択探求とは、経営において「上手に」することを探求する学問。

手段選択探求の米国

 米国で「上手に」に注目がいくのは米国独特の哲学プラグマティズムに寄るところが多いのです。議論が煩雑になるのでこの詳細は略しますが、「目の前の事象に対して、その場で考えうる上手くいく方法を選択する」(大賀祐樹(2016)超大国アメリカを支える思想「プラグマティズム」入門 PRESIDENT 2016年12月5日号)という説明はわかりやすく、かつ上述のmanege概念とも整合性があるものです。米国のビジネススクールでは規範的経営学は教えないし研究もしない理由はここにあります。上手にすることには、よいことを考えなくてもできますし、階層と役割が明確な働き方をしている米国ではManagerはそれがよいことか否かを考える必要があるはずもなく、よいことを考える必然性はなにもないからです。上手にできているのかを管理すればいいのですから。この解釈は前出のWEFの記事とも整合します。

規範的経営学の米国における位置づけ

 規範的経営学(ドイツ流にいうと経営経済学)は、「哲学者から見ると哲学ではないし、経営学者から見ると経営学ではないと批判されるような中途半端な存在になってしまった。規範的経営学がアメリカで開花した。それを成功させたのは、欧州大陸の知的伝統を引き継ぐドラッカーである。ドラッカーの業績は経営者に大きな影響を及ぼしたが、学者の間では学術研究とは見なされなかった」(加護野忠男『経営はだれのものか』2014年)。
 そうすると何が起きているのは明白です。「上手に」は徹底的に追求するが「よいこと」は一切扱わない。これが何をもたらしたのかを探っていきましょう。

我が国の経営学の伝統

    日本で最初に学術語として経営学という言葉を使ったのは東京高等商業学校の上田貞治郎先生でした。上田先生の門下生である神戸出身の平井泰太郎先生が神戸大学経営学部を創立しました。1922年からドイツへ留学した平井先生は当時ベルリン大学やフランクフルト大学で花開いたばかりの経営経済学を学び1926年に神戸高商で経営学を開講します。日本で初めて経営学の研究と教育が神戸ではじまりました。同年平井先生を中心にドイツ留学経験のある研究者で日本経営学会が設立されました。つまり、伝統的に「よいこと」を探求してきたのが「我が国の経営学」であり、それが神戸大学で生まれたので「この地に生まれる」なのです。

 すこし余談ですが、我が国でピーター・ドラッカーは経営学者とも経営の神様とも呼ばれていることは周知のことかと思います。その著書『マネジメント』の日本語版序文で、「率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていた」と書いています。

 ここで注目したいのは、道徳経済合一説を渋沢栄一氏が提唱したのは1916年の『論語と算盤』でそこには「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」と明記されています。つまり、平井先生が経営学を確立させようと奔走した時代の我が国では「よいこと」を探求するのが経営で経営学だったのです。その伝統が長かったので我が国ではドラッカーは経営学者と呼ばれるところなのです。

 余談ですがそうすると「上手に」が入ってきたのはいつか。比較的最近で戦後フルブライトなどで米国留学に行った先生方が持ち込み、飛躍的に伸びたのは1990年以降になります。一つは実務界でのMBA留学ブームと、統計を処理できる計算機の普及化後です。
このような状態について阿部謹也先生は2001年に「近代的制度はすべて欧米に範をとってつくられたために、どのような問題でもまず欧米の諸事情を調べるという慣行が生まれ、あらゆる問題に関して欧米が模範とされた。・・・我が国の知識人は欧米の社会を賛美していれば仕事が果たせるという状況であった。」(『学問と「世間」』)と嘆いておられます。しかしながら私は欧州はなく、米国のみであったのがここ30年の動向ではないかと考えています。

ドラッカーを読みも教えも研究もしない米国のビジネススクールが起こした事件

 「よいこと」を考えないのは上記Warren Bennisが明確にしたmanegement概念で明らかです。よいことを考えないのですから、評価は上手にできたか否かの一軸となります。それを経営において上手にとは金儲けが上手にできることだとするとその後の悲劇が何故引き起こされるのかがよく分かるはずです。前出の大賀祐樹(2016)で「プラグマティズムを「うまくいけばほかのことは犠牲にしてもいい」という、ある意味、儲け第一主義だと捉える人もいるが」(大賀祐樹(2016)超大国アメリカを支える思想「プラグマティズム」入門 PRESIDENT 2016年12月5日号)とあるようにこのような理解が存在しているのも事実です。
 
 1986年には後に経済不正事件で逮捕されるIvan Boeskyを卒業式来賓に呼んでバークレイビジネススクール(Hass)が行った祝辞で「Greed is all right, by the way. I want you to know that. I think greed is healthy」と鼓舞しました。このように米国のビジネススクールは、エンロン事件等々の経済事件を起こす人物を大量に輩出してきました。そのとどめの一撃がリーマンショックです。この事件とビジネススクールがどう考えたのかは当事者が明記しているので以下に引用します。

ハーバードビジネススクールの反省

 2008年、HBSは2つの意味で転換点を迎えます。創立100周年の記念すべきこの年、世界金融危機が始まりその震源地に多くの卒業生を輩出してきたHBSは「本当に世界をよい方向に変えるリーダーを育成できていたのか?」という深い自省を得るのです。そして、ニティン・ノーリア大学長のもとで教育大改革が断行されました。(『ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか―――世界トップのビジネススクールが伝えたいビジネスの本質』

 では、その改革はどれほどのものだったのか。自己否定による学習棄却とは何かが分かるので当事者の記述を引用します。

 これまで「ハーバード」という名称がタイトルに載った本は何十冊と出版されているが、それらは辛辣な言い方をすると、すでに「賞味期限」が過ぎている。これまでの本は、HBSが100周年を契機に行った深い反省について触れていない。
(『ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか―――世界トップのビジネススクールが伝えたいビジネスの本質』)

ビジネススクールだけではないハーバード大学の反省

 大学としての総力戦で反省と改革に邁進したハーバード大学が外部に公開したのがマイケルサンデル教授の講義です。2009年にWGBHという放送局が講義を取材編集しMichael Sandel's course 'Justice'として公開されました。我が国ではこの講義がNHKにより日本語吹き替えが放映され、日本語タイトルハーバード白熱教室「これからの正義を語ろう」は当時「白熱教室ブーム」となりテキストもベストセラーになったことは記憶に新しいところです。
 このように、「よいこと」とは何かを「上手に」よりも上位概念とする宣言を対外的に示した行動に大学挙げて邁進しているとも言えます。

米国では人材育成も変わった

 米国の人材育成団体は2014年までASTD(American Society for Training & Development)と名乗っていましたが、2014年にATD(Association for Talent Development)と名称変更しました。この団体は1944年に設立された非営利団体で、人材育成分野で著名な団体です。見て分かる通り Training が消えました。train (v.)とは"to discipline, teach, bring to a desired state by means of instruction," "draw out and manipulate in order to bring to a desired form"なので、「指示によって規律し、教え、望ましい状態にすること」「望ましい形にするために引き出して操作する」ことです。これを放棄したのです。
 つまり、馬をしつけるというmanagement概念は過去のものとなったのです。

WEFですら(も)

    一般にダボス会議と呼ばれている世界経済フォーラム(前出)ですら(も)talent-ismをこれからの資本主義の代わりにと2020年1月のダボス会議で宣言しました。これは強欲資本主義からの脱却でもあったわけで、ニューヨークタイムズ紙がダボスに革命がと報じたとおりです。(The New York Times Opinion The Revolution Comes to Davos At the anti-capitalist capitalist event, radical sentiments erupt in unexpected places. By Tim Wu Jan. 23, 2020)

自己否定による学習棄却

 米国のビジネススクールが2008年までに行ってきた過ちと、それからの猛反省による過去の棄却(unlerning)=過去の全否定は先ほどHBSの例を示したとおりです。ATDもそうです。しかるに、我が国では今でも「これまで「ハーバード」という名称がタイトルに載った本は何十冊と出版されているが、それらは辛辣な言い方をすると、すでに「賞味期限」が過ぎている。」といっているのにそれらを読んだり使っている人。例えば、開発者の大前研一さんが自らの手で葬り去る宣言をした3Cフレームワークを利用している人などがなんと多いことか。

 大学院生ですら、統計を用いた科学的論文でなければならないとか言い出す者がいるのも事実です。よいことを計量経済学や構造方程式モデルなどの統計手法でその適否を判断することはできないのに。これはマイケルサンデル教授の講義を見ていても明らかでしょう。サンデル教授の講義の討議課題を統計手法で立証できるとでも?

この時代に求められているのは

 加護野忠男先生は「健全な資本主義を成り立たせるには、営利主義や合理主義よりも大切な精神がある。日本企業が失ってしまったのはそれである。」(『経営の精神』2010年)と指摘しています。

 また、「経営学は、規範的な問題を避け手段選択の問題にかかわることによって発展することができた。しかし、いつまでも規範的な議論を避けることはよいのであろうか。最近は規範的な議論の必要性が高まっている」((加護野忠男『経営はだれのものか』2014年)。

 とも指摘しています。それ以上に、合理的な思考は経営を破綻させるのですが、この話は次回にでも。

(脚註*この部分の引用は記憶によるものです。おそらく 加護野忠男『経営の精神』2010だとは思いますが『日本型経営の復権』1997とも思います。現在大学は立ち入り禁止で防疫行動中なので手元に本がないために文言も記憶に刻まれたものになっています(ある意味要約)。後に本が手に入る状態になれば訂正します。疫病禍のもとなのでご海容の程)
(上記補足2020/08/21追記:少なくとも、 加護野忠男『経営の精神』2010年の30頁には「アメリカには経営学という概念はない。・・・イギリスでは経営学が成立することはなかったし、経営教育が普及するのも遅かった。・・・ドイツにも経営学という概念はない。ドイツには経営経済学という名称はあるが経営学という名称はない。」「英語のマネジメントは動詞の・・・その原義は動物などを飼いならし、意のままに動かすことである。」とあります。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?