日蓮聖人のおことば5『妙法尼御前御返事』みょうほうあまごぜんごへんじ
夫れおもんみれば日蓮幼少の時より仏法を学し候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬にあらず。賢きも、はかなきも、老いたるも、若きも定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし。
弘安元年(1278)7月14日執筆
『昭和定本日蓮聖人遺文』1535頁
(訳)
考えてみるに、わたくし日蓮は、幼少の時から仏法を学習してきましたが、よくよく思うに人の寿命は無常であります。吐く息は、吸いこむ息を待つ間も無いほどであり、風の吹く前の露のようなもので、いつ散ってしまうかわからないものなのです。賢い人も、そうでない人も、老いたる人も若い人も、すべての者がいつ死を迎えるかは定めの無いことであります。そこで、まず第一に「臨終」のことをよくわきまえて、その後に、他の事を考えるべきでありましょう。
(解説)
弘安元年(1278)、日蓮聖人が57歳の時に身延山(現在の山梨県南巨摩郡)で執筆されたもので、檀越(信者)であった「妙法尼」という女性へ宛てられました。日蓮聖人の信者の中に「妙法尼」と呼称される方が複数人いたといわれていますが、この手紙の宛てられた「妙法尼」は、岡宮(現在の静岡県沼津市岡宮)の尼と推測されています。
この手紙は、岡宮に住していた妙法尼に対する返書で、故人が南無妙法蓮華経の御題目を唱えつつ息を引き取り、顔色も生きていた時より白く安祥としていたいう報告に対し、故人の成仏は疑いないものであることを伝えています。特に注目すべきことは、人の寿命は無常であり、出る息は入る息を待つことなく、風の前の露のようにはかなく、老若の定めもなく突然にやって来るものであるからこそ、まず臨終の事をよくよく習ってから他事をいたすべしであると指南していることです。
(思うところ)
生きている者に必ずおとずれることが臨終です。「生」があるからこそ「死」があるのであり、「死」があるからこそ「生」が尊いものであると考え、私たちは一所懸命に生き抜いていかなければなりません。「死」を忌み嫌って穢れとする考えもありますが、必ずすべての者におとずれることです。そのためにも、「死」を肯定的に受け入れることこそ、「生」が充実したものになるであろうとの考えに至るのであります。
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