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いつか出ていくこの部屋で。 【2022年の五悦七味三会を振り返る④】

下手にこんな試みを始めてしまったが故、いつまで経っても今年のことが書けません…。
でもやめるわけにはいかないのよね〜。
僕は昔から「やると決めたことを途中で投げ出せない」という特徴を持っています。
ストレングスファインダーでいうところの「達成欲」。
これは一見素晴らしい性質に思えるんだけど、時に、「何がなんでも終わらせる」ことだけが目標になってしまう時がある。
そうなると内容なんてどうでもよくて、ただただ「やった」という事実だけを求めてしまう。
そして数週間後にそのクオリティの低さに愕然として血の気が引くのよね。あー恐ろしい。

そういうわけで(?)五悦その3です。

五悦③:引越しをした

さて引越しって、みなさんしたことあるだろうか?
引越し、みなさん好きだろうか?

かくいう僕は、実は引越しがとてもとても好きである。
11月に2年住んでいた部屋の契約更新のタイミングが来たので引越しをした。
一人暮らしの引っ越しは、3回目。

「新しい街に行く」爽快感や新しいチャレンジの感覚、知らない街への冒険ということもそうなんだけど、僕はどちらかというと「この街を出ていく」というのが好き。とても。
住み慣れた部屋を出ていく時の、あのなんともいえない寂しくて感傷的になる感覚。
荷物を全部運び出してがらんとした部屋は大親友のような気もするし、見知らぬ他人のようにも見える。
親友と語り合った夜も、親友と喧嘩した夜も、別れの日も、出会いの日も、たくさんピアノの練習をしたことも、歌の練習をしたことも、寝坊した朝も、緊張して早く起きた朝も、映画をみた夜も、音楽を聞いた夜も、全部がその部屋で起きたことで、その部屋と過ごした毎日で、全てが大切な記憶で、大切な人生で。
このただの木とコンクリでできた壁と床で囲まれた狭い空間に、自分の20代の貴重な人生の一時期が確かにあったのだ、と思うと、どうしようもなく感謝の気持ちが生まれてくる。
なんとも思ってなかった昨日までのこの部屋での暮らしが、なんだか急にとても大切で、宝物で、さもものすごく感動的なシーンかのように回想されていく。

まあこう思えるってことは、きっと本当に素晴らしい日々をあの部屋で送れたってことなんだろう。
引越しの度ににそう思っていられるのは、本当に幸せなことなんだろうな。

「終わり良ければ全てよし」という言葉は本当だな、と思う。
というか、終わらないことには何の物語も出来上がらないんだと思う。
終わりのない時間を意味づけするのは難しい。
完結して終わりが来るからこそ、それを解釈して意味づけをして、自分の中に位置付けて整理するという行為ができるように、ようやく、なるように思う。
ちゃんと夜が来て、朝が来るからこそ今日があるわけで。
「僕らは『いいお別れ』のために生きているんだ」なんて誰か言っていたけれど、本当にいい言葉だなと思う。

お別れは時に予測できないタイミングでやってくるけれど、引越しは自分のタイミングで自分の人生に区切りをつけていく行為に思える。
自分でコントロールできる「終わり」なわけだ。

だから、引越すその部屋での最後の日に「ああ、なんていろんなことをこの部屋で経験したんだろう、幸せだったな」と感傷にひたりながら一人色々な思い出を振り返ることができるってのは、おそらく「幸せな人生」そのものなのかもしれないな、と思うわけである。
例えば人生最後の日にこういう感情になれたら、本当に幸せだろうな、と。
出ていく日に、その場所を好きでいるならこれほど幸せなことはない。

大人になって様々な「お別れ」を先んじて折込んでしまうことはちょっと悲しいけれど、でも悪いことばかりじゃあないな、と思う。

いつか出ていくこの部屋で、今日も一生懸命生きていたい。

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