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『いのち』について

ぼくが初めて『いのち』について考えたのは、高校1年のとき。

グランドで部活をしている時に先生から
「赤池、ちょっといいか」と呼ばれた。
「親御さんから電話だ」

ぼくは練習着のまま下駄箱で上履に履き替えて、職員室に向かった。

学校に電話をかけてくるなんて、嬉しいことでないことはわかっていた。
放課後の廊下に鳴り響く自分の足音が、胸をざわつかせる。

職員室のドアを開けると一人の先生がぼくを手招きしてくれた。
職員室で電話をとる、というシチュエーションだけで、緊張も増した。
電話は母からだった。
「あー、きよし、携帯に何度も電話したのに」
「ごめん、部活中だったから」
「そっか、あのね、おじいちゃんが亡くなったんだ」

この時ぼくは何を感じたか、あまり覚えていない。
悲しかったような、でもすこし安堵してしまった自分がいた気もする。

じいちゃんとは4年間くらい会っていなかった。
小学校までは一緒に暮らしていたけど、

じいちゃんの体調が悪くて入院したり、
家庭の事情もあって施設に入ったりしていた。

その間、ぼくは一度もじいちゃんに会わなかった。

4人兄弟の末っ子であるぼくは、一番上と13個離れている。
なのでものごころついた頃のじいちゃんは、すでにだいぶじいちゃんで、一緒に出かけたりした記憶がない。

病気を持っていたこともあり、
基本的には一緒に暮らす家の、じいちゃんの部屋にいる光景ばかりが思い浮かぶ。

「きよし、わるいけどちょっと肩を叩いてくれないか」
「うん、いいよ」トントントン
「あ〜そこだそこだ。もうちょっと強く叩けるか?」
「うん、わかった」ドンドンドン
「あ〜、もうちょっと強い方がいいなぁ」
「っこれくらい、っですか」ドスドスドス

最後の方はまじでフルパワーで叩いていた。
いや、むしろ殴っていた、と言っていい。
じいちゃんの肩はとんでもなく硬かった。

「きよし〜ちから強くなったなぁ。ありがとう」
「ハァハァ、どう、いたしまして。ハァハァ」

ぼくがじいちゃんとの思い出で一番残ってるのは、これなんだ。なんだか恥ずかしいね。

じいちゃん。
あの部屋で、ほとんど一人で過ごしてたんだよね。
一人、何をしてたの?何を考えてたの?
もうわからないよ。聞くのが遅すぎるよね。

4年ぶりに会ったじいちゃんは、静かに眠っていた。
鼻の穴に白い綿が詰められていた。

親族みんなでじいちゃんを囲み、お別れを言う。

親父は何かを言いながら泣いている。
親父に会うのも久しぶりだった。

ぼくは涙が出なかった。悲しくないわけじゃない。
それよりも『いのち』の不思議さを、初めて体験していた。

じいちゃんが眠っている。もう起き上がることはない。

あれだけ強く肩を叩いてもビクともしなかったじいちゃんは、死んだんだ。

『いのち』ってなんなんだ?この体ってなんなんだ?
じいちゃんの体はここにあるけど、じいちゃんはもうここにはいない。

この体はただの器なのか?たましいがこの体から離れたのか?

『いのち』ってなんなんだ?

お寿司の味なんて、しなかった。
というより、なんでお寿司をみんなで食べるのか、理解できなかった。

ぼくは数日間、『いのち』について考えていた。
それでも答えはなにも出ない。

気がつけばいつもの日常が、ぼくを迎えにきていた。

友達と部活に励み、遊び、そして恋もした。

それでも、
『いのち』ってなんだ?という問いは

ぼくの心に深く、深く刻まれていた。

じいちゃん。
いろいろ聞きそびれてしまったけど、
じいちゃんがいなければ、ぼくは存在すらしていないよ。

『いのち』について、という大きな問いを、
その生涯をかけて教えてくれてありがとう。

じいちゃんがつないでくれたこの『いのち』を
ぼくは、ぼくなりに一生懸命に駆け抜けるよ。

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