見出し画像

4月18日

月曜日、自分にひまを与えたのはよかったのかわるかったのかわからない。仕事や約束ごとは火曜から、月曜に予定を入れることはほとんどない。金曜も仕事はないが、平日の3日を仕事したり人に会ったりして過ごすことではずみがついているのか、金曜に人と会うことはそれほど苦にならない。それでも予定がないと伸び伸びする。

それなら予定を入れなければいいのにとも思うが誘いを断るのが苦手で、断ってくよくよ悩むくらいなら行ったほうが楽だし、断るほどの理由もないので行く。自分から誘う場合は強迫観念からくる義務感に近い焦りであることがおおい。誕生日を祝わなきゃ、そろそろ連絡しなきゃ、手伝いに行かなきゃ。会えば楽しいし、実際人一倍楽しそうにしているから、自分を知る人間がこれを読んだら鼻で笑うだろう。人が好きだし、他人に興味があるし、知らない人と出会いたいという欲望は人一倍持ち合わせている。けれど人といるのはなに分つかれる。「人と会いすぎないようにする」これが、気持ちも生活も安定していられるために大切なことと知ったのは、最近のこと。

月曜日に気持ちが沈むのは、土日はずっとmと居て、一緒に居て疲れるような関係性ではもはやないがやはり人といるのは疲れるからなのだろう。一緒にいてそれぞれ別々のことをしていても。連休やコロナの自宅療養や、一昨年5月の外出禁止令の後はこたえた。それでも自分は人と暮らすことを選んでいるし、これからもそうしていくだろう。栄養のあるご飯を食べて、風呂に入って衛生を保ち、十分な睡眠をとる。一人で生きていくとしたら、今ですらかろうじて保っている人としてのこれら最低限の営みをしなくなる可能性が高い。それはそれで良かろうという思いもあるのでますます、である。

井筒豊子の短編集「白磁盒子」を読む。情念をきりりとあらわし、ぬめぬめと光りながらも湿度は高くない。隠的な「情念」と呼ばれるものと対になって存在する、陽の本質に触れているからだろうか。死というものへの距離感が近しいと感じた。
この本を貸りた友達に連れられ詣でた井筒夫妻の墓所に、山椒の木が二本植えてあった。墓に珍しい山椒を選んだ真意はわからず、知る時が楽しみである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?