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『ドーイドイ』を知っているか

『ドーイドイ』という言葉を知っているか。
私は知っている、シワシワで温かい掌とともに。
それは、あの世とこの世を繋ぐ絶叫。

訃報を聞いたとき、私は吉祥寺の居酒屋にいた。
「明日は始発かな」
そう思って、お代わりの生ビールを軽めのカクテルに変更した。
梅水晶を追加注文しながら冷静に考える。
喪服はどこにあったかな、駅前の紳士服屋で買えるかな。
ああ、そういえばお盆真っ只中だ。
 
葬式の次の日、私はいきなりステーキを食べた。
「元気が出ない」
妹からLINEが来たので「無理して出す必要ないでしょ」と返した。
肉塊を貪りながらでも喪に服することはできる。
焼き場で真っ白く軽い骨を拾ったことを思い出しながら。
 

 
2023年の夏は何だかずっと、死の匂いを身近に感じていた。
ただでさえ、夏って日本人にとっては特別な季節だ。
70数年前、母国に起きていた出来事を知らない人間はいない。
今年はとある炎上騒ぎが話題になっていて、その時代を思うことが特に多かった。
 
『バーベンハイマー(Barbenheimer)』
7月末に全米公開された映画『バービー』と
同日封切りの映画『オッペンハイマー』に関するネットミームである。
アメリカのポップアイコンであるバービーと、
原爆の生みの親オッペンハイマーを絡めたファンアートが盛んに作られ、
SNSで公式が乗っかったことから大問題になったのだ。
もっとも、怒っているのは日本人だけだったが。
 
長崎の血を引く私は、遠い東京の地で、あの8月に思いを馳せる。
祖母が女学校の作業中に、巨大なキノコ雲を見たこと。
満州から逃げてきた人たちを、実家の納屋でこっそり匿っていたこと。
闇市で鬼ごっこしたこと。
戦時中のフィリピンで、祖父の乗った船が全滅して、
仲間たちの遺体を泣きながら足蹴にして脱出したこと。
スカルノ大統領にタバコをもらったこと。
生きることと死ぬことが同等に語られ、映画のような出来事がすぐ隣に転がっていた。
 
長崎県・諫早に住む祖母の訃報が届いたのは、
そんな8月の中旬。とにかく蒸し暑い夜だった。
最近食が細くなっていたと聞いていたが、相変わらず豪快で毒舌。
頭の回転が早く、周りの人の心配ばかりしている。
数日前にも「素麺なんて要らんと言いつつ、いっぱい食べてくれた」と
うちの母は嬉しそうに話していた。
 
94歳の大往生。ボケることもなくピンピンした最期だった。
だからと言ったわけではないが、不思議と私は冷静だった。
淡々と里帰りの荷作りをして、新幹線は混み合うだろうなとため息をつく。
いい歳こいて大慌てするほうがおかしいのだろうが、
私の場合、感情大爆発で取り乱さないほうが珍しい。
『何を大人ぶってんだよ、泣けよ』
俯瞰から見下ろすもう1人の自分が鼻で笑っていた。
 

 
通夜には間に合わなかった。
葬式の前日、夜遅くに長崎へ到着する。
すでに集まっていた親族が出迎えてくれた。
ここで、愉快な一部メンバ―を紹介しておこう。
従兄弟①:ポップで明るい愛犬家の歯科衛生士。
15個上の彼氏と婚約したくて親と揉めている。
従兄弟②:愛知の奥地でカレーを作っている物静かな山男。
自然派志向のヴィーガンで色々と活動中。
妹:姉を反面教師に育った冷静でドライな海外マダム。
実は7日前に罹患してコロナ療養中。
色々とツッコミたくなるが、今回の目的はソコではないので割愛する。
 
駅まで迎えに来た父は、何だか嬉しそうだった。
そういえば春先に東京で会ったきりで、地元に帰るのも約2年ぶりだった。
「みなこ、よう帰ってきたね。新幹線座れんかったやろ」
自分が一番悲しいはずなのに、母も満面の笑みで迎え入れてくれた。
意外と座れて快適だったよ、と標準語で返事しつつ、
いつも通りの雰囲気にちょっとホッとする。
今考えれば、みんなも私も、落ち着いている振りをしてたんだろう。
大人だってなんだって、悲しいものは悲しいのだ。
 
妹は娘を連れてきていた。利発な姪っ子3歳である。
ソワソワする気持ちを紛らわせるため、私は彼女と遊ぶことにした。
滞在していたホテルの眼下には川が流れていて、
2人でジッと水面を観察する。
 
その川は本明川と呼ばれていて、
私も幼い頃、魚釣りをしたり石投げをした場所だった。
毎年8月15日、亡くなった人の御霊を豪華な船に乗せて
鐘や爆竹を鳴らしながら見送る『精霊流し』が行われるところでもある。
ぼんやりと点る提灯に、爆竹の煙が闇を照らす。
極楽浄土と此方が繋がる、それが長崎の夏の風景だった。
来年のお盆には、祖母の船も浮かべられるだろう。
 
海鳥の羽ばたきを眺めていた姪っ子が、ふっと川辺を指差した。
「みなこ、黒い人がいっぱいいるね」
母も一緒になって見つめたが、それらしき人はいない。
「おいでおいでしてるね。あの川で遊ぶのはやめようね」
実はその前日にも、妹の家を訪れていた私に、
「みなこ、明日も一緒に遊ぼうね」と彼女は笑顔で言っていた。
祖母が亡くなることを知っていたのか。
7つまでは神の子とは言ったものである。
彼女は、私たちには感じ得ない何かを抱えていたんだろう。
 

 
葬式の当日、普段よりずっと早く起きる。
と言うか、私はほとんど寝ていなかった。
喪服のボタンが取れかかっていて、必死に付け替えていたのだ。
常軌を逸した不器用である私は、針に糸を通すだけで1時間以上かかる。
家庭科の先生に「私のほうが歯がゆい」と言わしめたレベルである。
悲しいのに忙しいというわけのわからない心情で、
朝日が登る頃、2時間近くかけてどうにか修繕を終えた。
結局、喪服を着た瞬間に全て解けてしまったのだが、
あの達成感は凄まじかった。
私も大人になったな~と成長を感じたものだ。
以前の私だったら「ちょっと無理だわ」と母に頼っていただろう。
もう甘えていられないと、ちゃんと理解していた。
 
葬儀場に着いて、祖母の顔を見る。
お別れのたびに思うのだが、息をしていないという実感が湧かない。
今にも「みなちゃん」と呼んでくれそうなほど、穏やかで綺麗だった。
そう言えば、若い頃は随分なべっぴんさんだったらしい。
戦争を乗り越え、激動の時代を生き抜き、
破天荒この上ないボンボン実業家だった祖父を、度胸と笑顔で支え続けた。
うちの母を見ていればわかる。立派に3人の子どもも育て上げた。
もちろん、私はおばあちゃんになってからの祖母しか知らないが、
伝え聞いた話はどれもドラマチックで、これからも決して忘れないだろう。
 
知ってる人、知らない人、
大人も子どもも黒い服に身を包んで挨拶にやって来る。
まだまだ猛威を振るう疫病のこともあり、
新聞の訃報欄には『ご無理をなさらず』と掲載したらしい。
そのせいもあってか、来訪客は意外と少なかった。
受付の合間には、従兄弟たちとお弁当をつつきながら近況報告をする。
お盆なんだけど、いつものお盆じゃない。
「バアバ、みんながいる時に合わせたのかな」
なんて話しつつ、キンキンに冷えた麦茶で喉を潤した。
 
葬儀は、すすり泣きをBGMに淡々と進む。
私は、司会者の女性の強調された鼻濁音が気になっていたが、
周りに話す機会がなかったのでここに記録しておく。
娘を連れていた妹は、15年前の祖父の葬式の時よりも弱々しく見えた。
同時に、必死に自分を律しているように思えた。
母親になるというのはそういうことなのかも知れない。
うちの母親もまた、同じように凛と立っていたから。
結婚も出産も予定のない私は、不思議な気持ちでその姿を見つめていた。
 
孫代表の挨拶は、従兄弟②が行うことになっていた。
私は、ワクチンについて反対派の演説があるのではないかと
ちょっとドキドキしていたのだが、周りに話す機会がなかったのでここに記録しておく。
結局、従兄弟②の言葉は親族の心を大いに震わせ、
在りし日の故人の姿を思い起こして、私もハンカチをびしょびしょにする。
葬儀終わり「やるじゃん」と声をかけると、彼は「プロに褒められた」と
幼少期のままの顔で微笑んでくれた。
 
お棺に花を敷き詰めて、
祖母の顔周りでは大好きな胡蝶蘭が咲き乱れていた。
母はわずかに嗚咽をあげていた。ああ、やっと泣いてくれたと安心する。
子どもの頃、母は絶対的に強い存在だった。
自分のように迷ったり悩んだり、立ち止まったりしないと思っていた。
同じ人間なのだと気付いたのは地元を離れてから。
ポツポツと私に相談事をする母に、とても戸惑ったのを覚えている。
こないだまで子どもだったのに、急に大人になれなんて、あの頃の自分には難しかった。
成人してかなりの年月が経ち、私もやっと慣れてきた気がする。
目を腫らした母、その背中を支えようとして、
しかし、その手は宙を舞うだけだった。
母の隣にいたのが妹なら、上手にできたんだろうか。
今の私には、まだ無理なんだろうか。
 

 
出棺後。親族たちは、焼き場へと車を走らせる。
仕事の都合で、その日のうちに東京へ帰る予定だった私は、
ちょっとだけ焦っていた。
同時に、できればお骨を拾う前に焼き場を出たいと、
本気で願っていた。
 
なぜそんなことを考えていたのか。
実は、私は今までお骨を拾ったことが1度もなかった。
幼い頃だったり、人がいっぱいだったりしてタイミングが合わなかったのだ。
お葬式は何度か経験しているのに、珍しいことである。
父や母から「白くて小さかったよ」など話を聞くたびに、
募っていくのは恐怖だった。
つい先日まで生きて動いていた人が、物言わぬモノとなる。
あまつさえ、焼いて骨にして拾わせるなんて信じられなかった。
お恥ずかしい限りだが「死ぬとはこう言うことだ」と
現実を突きつけられるのが恐ろしかったのだ。
 
葬儀屋もそうだが、葬祭を生業とする彼らは極めてドライである。
医者と同じくらいビジネスライクだ。
焼き場に着いて早々、私たちに別れの挨拶をさせると
「1時間15分くらいで焼き終わります。
小柄なので1時間ちょいくらいですかね」と言い残して、
とっとと下がっていった。私は普通にドン引きする。
叔母だけが涙ながらに動揺した様子で、
「もうお別れなの?こんな暑い夏に熱いところに入るなんて」と
言ってくれたので、私まで救われた気がした。
正直、恐ろしくて恐ろしくて喚き散らしたい気分だった。
 
控室に行くと、みんなはお菓子を開け始める。
バアバは花ぼうろが好きだったね、と地元の銘菓を頬張る。
元来、うちの血縁は陽気な一族である。
母に「みなこ、手袋を取ってごらん」と乞われて、
私はみんなに素手を晒した。
実は、かなり派手なジェルネイルをしていたのだが、
急な訃報に駆け付けたため、サロンでオフする時間がなかったのだ。
結局、日焼け防止の手袋でどうにか隠し通していた。
デカデカと「大吉」と描かれたネイルアートに、親族は一同大爆笑する。
義理の弟は笑い転げて「最高のすべらない話だ」とのたまう。
笑ってる場合じゃねえって。
 
姪っ子の言葉にみんなで頬を緩めたり、
良いところのお弁当だからちゃんと食うようにと言われたり、
それぞれの近況で盛り上がるうちに、時間は過ぎていく。
ふと、従兄弟②がバアバの昔の話を聞きたいと言い始めた。
母たちは懐かしそうに口を開く。
ある時、バアバと子ども3人で相撲大会をしたらしい。
大きなお屋敷だったので縁側で組み合っていたら、
バアバが叔父を投げ飛ばした。
急に姿が消えた叔父に、母たちは大笑いしたそうだ。
結局、いつもバアバが優勝していた。
思っていた通り、かなり豪快な母ちゃんだったようだ。
 
まだまだ話は尽きない。
前述の通り陽気なうえに、祖父譲りでブラックジョーク大好きな我が一族。
「みなこ、あんたすぐ出んといけんのやろ?」
「箸で骨持ったままタクシー乗ったらいかんよ」などと言って
また一同大爆笑となる。だから、笑ってる場合じゃねえって。
先に逝った祖父もきっと喜んでいることだろう。
 
1時間を過ぎた頃、後片付けが始まる。
九州の男たちはマジで何もしないので、女性陣で湯呑みなどを洗う。
私は、おぼんを抱えてひとりで給湯室へ向かった。
親が大変なときに、ちゃんと動けるところを見せなくてはと思っていた。
「あんた、偉いね。気付けるようになったね」
その声に振り返ると、母がくっついてきていた。
 
母が湯呑みを洗って、私が布巾で拭く。
ああやって、隣同士で洗い場に立ったのも久しぶりだった。
「急なことで、大変やったね」
もうちょっと気の利いたことが言えないのかと思ったが、
悲しみの真っ只中にいる母に、掛けられる言葉は少なかった。
先ほど背中を支えられなかった後悔、添えようとした手が行き場を失っている。
 
「バアバはね、仕事を頑張るお母さんをいつも応援してくれてた。
だから、これからも元気に続けていく。
それが親孝行になると思っとる」
どんな顔をしながら言ってたんだろう。
私は勇気が出なくて、その表情を見ることができなかった。
母の持つ力強さに蹴落とされるようだった。
「お母さんたちもいつ倒れるかわからない。
あんたもしっかり仕事して頑張りなさい」
キュッキュと湯呑みを洗いながら、母は淡々と告げる。
未来を思って涙が込み上げたけど、
母が泣いてないのに泣くわけにいかない。
「わかった」その返事に全てを込める。
母には伝わっただろうか、私のありったけの覚悟。
 

 
結局、お骨拾いには間に合ってしまった。
「そろそろ仕上がる頃やろ」と
まるでパンか焼き芋みたいな会話を交わしていると、
「ご準備が整いました」とアナウンスが聞こえた。
「嫌な知らせ方よねえ」など文句を言い合いつつ、お棺の元へ向かう。
あの時の雰囲気を、上手く表現する言葉が見つからない。
軽快ではなく重苦しい感じでもない。諦めの感情に近いだろうか。
人間が死んで、遺体を焼かれ、形を失う行為。
みんなは、その事実を受け入れて生きているのだ。
 
わらわらと部屋の中に入ると、
黒い鉄骨と薄紺の灰が飛び込んできた。
その隙間に、まるで脱色したように純白の欠片が転がっている。
それがお骨だと認識するまで時間がかかった。
バアバはもう完全にいなくて、頭蓋骨の一部からやっと
人間だったんだとわかるくらいになっていた。
 
どういった仕事の人かわからないが、
おじいさんが大きなスコップのようなもので骨を掻き分ける。
「この辺が膝ですね。小柄だったんで小さいですけど」
「骨粗鬆症だったんですよ。やっぱりスカスカやね」
みんなはその解説に身を乗り出して、アレコレと観察している。
私はどんな顔をすれば良いのか分からなくて、
社会科見学のようにジッと黙って聞いていた。
 
ザッザッ、ザザッ。
バアバの骨の音は思ったより軽かった。
「喉仏が残ってるかな」
リズミカルにスコップを振るう謎のおじいさん、
その手付きが何かに似ていると気付いた。
映画館のフードコーナーで、レジ脇のポップコーンをすくう様子だ。
真っ白で細かい骨、灰をひっくり返すたびに漂う煙、
まだ残っている火の熱さと、焼けた香ばしい匂い。
これが人間の行き着く先。私も母もいつかはああなる。
その日の順番がやってくる。
 
箸で摘んだ骨は、本当にモノだった。
だけど、その中身にはたくさんの人生が詰まっている。
バアバの生涯、そしてその場にいた私たちや、もっと未来の人々の命まで、
全てが宿っている遺残であった。
足、手、胸、頭などを全て拾い終えて
「こんな感じで宜しいでしょうか?」
やっぱりビジネスライクな謎のおじさんが、陶器の蓋をカシャンと閉じる。
こうして、滞りなくお骨拾いは終わった。
 
出発する時間が迫っていたが、もう少しみんなと一緒にいたかった。
手袋を外しながら、さらなる後悔をする。
バアバの頬を撫でることができなかった。
ネイルをしてても、ちゃんと触れておけばよかった。
そうやって死ぬことを肌で感じておけばよかった。
その時どんな気持ちになるか、知っておく必要があったのに。
 
その時、従兄弟たちが何やら騒ぎ始める。
さっきの謎のおじさんの背中に、
ちょうちょが一羽止まっていたというのだ。
おじさんに近付くと、確かに小さなモンキチョウがいた。
屋内の奥まった空間で、生き物が入る隙間はない。
そんなことがあるだろうかと全員で驚く。
「そういう演出なんじゃないの?
モンシロチョウじゃなくてモンキチョウってのがアレだけど」
と、妹が文句を言っていたくらいだ。
 
「きっとバアバやろうね。
それか、ジイジが迎えに来たのかもしれん」
母がカラカラと嬉しそうに笑う。
荷物を持って駐車場に出ても、ちょうちょは私たちに着いてきた。
そして、1人1人代わり交代に止まっていく。まるで挨拶をするように。
子どもも孫も、みんなで写真を撮った。
出来すぎたフィクションのようだが、不思議と笑みが溢れる。
謎のおじさんの演出だとしても拍手したい。
 
その後、私と妹は急いで駅へ向かい、
電車の中でアレコレと今回のことを話し合うことができた。
妹が娘を産んでから3年ほど、
そんなふうに姉妹で旅をしたのは久しぶりだった。
昔は2人で海外旅行もしたよね。
バアバがくれた穏やかで愛おしい時間だった。
 

 
これで、私が体験したお葬式の話は終わりである。
別れの儀式を、これだけ冷静に観察できるのも最後になるかも知れない。
もうこの世には私が「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼べる人はいない。
我が家は、父方も母方も祖父母が亡くなったことになる。
もっと現実的に、送る側になる日が来るかも知れない。
この夏は、その覚悟をする季節になった。
終わりは始まりという言葉がある。
本当に始まるんだろうかと思うときもある。
結論として、待っていても始まりは来ないのだろう。
自分が始めないと始まらない。
歳を重ねてきて、いよいよその始まりが迫っている。
もう理由をつけていられないのだ。人生は速度を増していく。
 
私には子どもがいないが、妹や姪っ子がいる。
作品を生み出す術も持っている。
何かをこの世に伝えていくことができるのだ。
祖母や母のように、大切なものを見つけて育てることもできる。
そう考えると、何だかワクワクしてくる。
 
バアバはいつも、家の2階から手を振っていた。
おいでおいでするように揺らすから、
帰れ帰れと言っているようにも見える。
その姿は、いつまでもみんなの心に焼き付いている。
自分に恥じない生き方をしたい。
母が祖母に誓ったように、私も元気に仕事に励もうと思う。


「こげんとは珍しかですねえ」と葬儀場の人も言っていた。
演出ではないらしい

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