見出し画像

英語ができるんじゃなくて、英語しかできないのだ

こんにちは、きゃはりんです。米国大3年生と4年生の間です。

この夏(2024年夏)、南インドの町・マドュライで10週間インターンをしています。

英語圏でない土地に、観光以外の目的で滞在するのは、これが初めてです。

インドは、数十キロ移動すると言語と食が変わる、と言われるほど他民族国家ですが、マドュライではタミル語が主流です。

大概の人とは、簡単な英語なら通じますが、大げさな身振り手振りが必須です。

こんな環境で過ごしてみて、思ったこと。それは、英語を「過信」してきた、最近までの自分への反省の念です。

実際、英語が使えるというのは、強い。英語がそれなりにできたから、米国大に進学し、国籍問わずいろんな人々と関わって、無事に3年生を終えられました。

しかしこの経験は、「世界共通言語」の英語を振りかざしていればよい、という傲慢な態度に繋がってしまったように思います。

私が初めて、はっきりとその傲慢さに気づかされたのは、三年生の冬休み、マドリードのカフェでのことでした。

観光地付近だし英語は通じるだろう、と思って、私が英語でチュロスを注文すると、店員さんはソースの種類などについて、スペイン語で応答してきたのです。

スペイン語は、単語が英語と似ているものの、動詞の活用が複雑です。そのため、私は聞き取ることはできても、短文を作って話すことはできません。

結局、全ての会話を、私は英語、店員さんはスペイン語で終えました。

店員さんも、私と同じような状況だったのかは、分かりません。けれど、「スペイン語で話し続けるぞ」というプライドが感じられたのも事実です。

この時、「英語を理解してくれる・使ってくれる相手が存在して初めて、私の英語力に価値が生まれるのだ」という当たり前のことに、気づかされました。

今、インドのマドュライで暮らしていると、相手が英語を理解しようとしてくれている・使ってくれることのありがたさを、より一層感じます。

マドュライは観光地でもなければ、この地域から一歩も出ずに一生を終える人だって、たくさんいるからです。

インターンシップのプロジェクトで、看護師と話すことが多いのですが、

頼まれたわけでもないのに通訳のような役割を果たしてくれる、年の近いメンターがいるから、成立しています。

毎日、「自分は英語ができるのではなくて、英語しかできないのだ」と実感させられます。

ただの自己満足かもしれないけれど、英語圏外に出た時は、まず、現地の言葉で挨拶する(してみる)。

そして、「私は日本語か英語しかできないから、英語ですまんの」という態度を示すようにしています。

頭をフル回転させて、英語でコミュニケーションをとってくれる人を見ていると、

ありがたさと共に、渡米後すぐの自分に重ねて若干のなつかしさも感じます。

思わぬ誤解、聞き間違い、情報漏れがあり、もどかしさを感じることもしばしばですが、

きっと、私の友達も、渡米後すぐの私に歩幅を合わせて見守ってくれたのだと考えると、

私もちょっとやそっとでめげずに、コミュニケーションを取る意思を見せ続けねば、と思います。


ほんやくこんにゃくが実在したら、即買うのにな〜


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?