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ブッダの生涯⑷ 若き日のブッダの悩み

シャーキャ族の浄飯王の長男として生まれたブッダの少年時代は社会的身分(生まれながらにしてクシャトリア)と物質的面に関して恵まれていた。

優雅な日々を過ごすブッダだったが、宮殿の物質的快楽に満足していなかった。少年時代のブッダむしろ静かに瞑想(めいそう)し、思案することを好んだ。

この頃、次のような逸話が残っている。

・樹下観耕(じゅかかんこう)
ある日ブッダは父浄飯王とともに国の農耕祭に出席。その時畑で重い農具を引く牛、耕した土から出てきた虫、その虫をついばむ小鳥、そしてその小鳥をとらえた猛禽の姿をみる。ブッダは生きる苦しさと、訪れる死のあっけなさ、そして弱肉強食の残酷さを知った。

・四門出遊(しもんしゅつゆう)
ある日ブッダは城の東門から場外へ出た。するとそこにはみすぼらしく衰えた老人を見つけた。誰でも老いることを知りショックを受ける。
南門から場外へ出たブッダは病んで腹のふくれた末期の病人を見つけた。その姿の恐ろしさにおののく。
また、西門から場外へ出たブッダは悲しむ人々に囲まれた死人を見つけた。誰もが死ぬことを知り大きな衝撃を受ける。
老、病、死を目の当たりにしたブッダは北門から出た時出家者を発見。その姿の清々しさに感動した。

以上は全て伝説である。

人間が生きるということはやがて老い、病に伏し、死に至るということでもある。わたしたちはこの事実を把握しているつもりであるが、いざ自分のこととなると真剣に受け止めようとしない。その理由は経典によるとわたしたちに3つのおごりがあるからだという。
『比丘達よ、これらは3つのおごりである。若さのおごり、健康のおごりと生命のおごりである』(増支部経典より)

人間生活の営みは「自分は若い、健康、生きている」というおごりに支えられてると言えよう。だが若さも健康も生命維持も決して永遠ではない。遅かれ早かれ必ず終焉がくる。このように考えてみると「生きる」という意味を真剣に問う時「死」が必ず来るという事実を避けて通るわけにゆかない。若き日のブッダも『人間として生まれること(生)』、『老いること(老)』、『病に伏すこと(病)』、『死すこと(死)』=生、老、病、死=これを『四苦(しく)』と呼ぶ。この四苦について悩み、思いを巡らせたのである。

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