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「みんなが私のことを笑うの。」

ごっこ遊びが苦手だ。

小さい頃はシルバニアファミリーで永遠に遊んでいられたのに、大人になるとこんなに苦痛になるなんて。

「おかあさん、あそぼー。」と誘う娘の声は、試合開始のゴングと等しい。息を深く吐き、気合いを入れて「いいよー。」と返す。

プロデューサーは娘、脚本家も娘、監督も娘、演者は娘と私。
娘の脚本にないムーブは一切許されず、しかも毎度のように同じ脚本を演じさせられる。

私は娘よりも多少機転のきく頭を持っているので、ごっこ遊びを回避しようと手を尽くすのだが、娘のごっこ遊びへの情熱は並ではない。

お絵描きすれば描いた絵やクレヨンで、レゴであれば作ったもので、何もないときは手でごっこ遊びする。娘発の列車はごっこ遊びにしか行き着かない。

どうしたものかと友人に愚痴をこぼしたところ、幼児教育に明るい彼女は「ごっこ遊びに夢中なのはとてもいいことだよ。現実のシミュレーションだからね。」と教えてくれた。

自分に起きたこと、友達に起きたこと、絵本やアニメで見たこと、それらの場面にどう対処するか。そこで生じる感情をどう整理するか。それをごっこ遊びを通してシミュレートしている、らしい。

そういうことか。

「えーんえーん」と娘の手にあるぬいぐるみが泣く。
「どうしたの?」と尋ねると、「みんなが私のことを笑うの。」と返してきたことがあった。

ギョッとして一瞬言葉を失う。これは単なるごっこ遊び、なのだろうか。

その発言の理由を慎重に探ってみると、娘が学校へ履いて行ったズボンに穴が開いていて、みんなに笑われたことがあったらしい。

どう思った?と尋ねると、少し考えて「悲しかった」と娘は呟いた。
きっとその場では何も言えなかったのだと思う。それどころか、自分が抱いた感情の正体もわかっていなかったかもしれない。

ぬいぐるみに同じ体験をさせることで、きっと娘なりにあの場面にもう一度向き合っていたのだと思う。
消化しきれなかった感情と、何もできなかった自分。

この出来事以来、ごっこ遊びは娘にお守りを授けるチャンスだと思えるようになった。

娘に起きたことに一緒に向き合い、正体不明の感情に名前を付けて、抱きしめること。
これから起こりうることに、どんな対処の選択肢があるのかを伝えること。

本当はずっと傍にいて守ってあげたいけど、できないから。
ごっこ遊びで伝えたことが、きっと娘の未来に繋がっていくはずだ。

「おかあさん、あそぼー。」はチャンス到来の合図になった。


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