「開かれた貿易」という自己矛盾する概念 (2024/01/14)

「開かれた貿易」とは何なのだろう。戦争の時代に移れども、誰もが貿易の恩恵を受けられるには、誰が何をすれば良いのか。昨年末から頭の片隅にこびりついて離れてくれない。

イスラエルとハマスの戦争が10月に勃発し、やがてイエメンのフーシ派が紅海・アデン湾を通航する船舶に対する攻撃を始める。結果としてスエズ運河を通航するコンテナ船の9割は迂回を余儀なくされ、海上輸送の運賃は急上昇した。コロナ禍に起きた「サプライチェーンの混乱」が脳裏をよぎった英米は、1月12日にイエメンの標的への約70回の空爆を通じて「正義」の鉄槌を下す。バイデン大統領はこれらの攻撃について、「国際貿易を守るために必要だ」と述べた。

コンテナ船社がこぞって(スエズ運河を通航せずに)喜望峰周りのルートに切り替えたことを背景に、「海運はベルトコンベヤだという常識を疑わなくてはならなくなった」という趣旨の意見を目にした。発言者は海事関係の専門家のようだったけれど、そもそもその常識は見当違いのように思う。

貿易は、開かれれば開かれるほど恩恵を受ける人たちが増える。しかしながら、そのインパクトの大きさゆえに、各国の思惑によってともすれば妨害されたり閉ざされてしまう脆弱な社会インフラだ。これまでもこれからも、誰かに守ってもらわなくては成立しないシステムなのだ。だからこそ、そこにどうしようもない無力さを感じれば、貿易が開かれていたら今日一日を生き延びられたかもしれない人びとのことを考えずにはいられない。

The Economistの記事に、ガザ地区のいまを伝えるものがあった。このまま状況が好転しなければ、イスラエルによる爆撃よりも、飢餓や病気で亡くなる人数の方が多くなると現地の支援団体は危惧する。WHOによると、4500人にひとつのシャワー、220人にひとつのトイレしか設置されていない。支援物資は、二次使用を警戒するイスラエルによって極端に制限されているうえ、なかにはコロナワクチンなど戦時には不要と思われる物資が諸外国から送られてきている状況だという。

このような人びとを守る術のひとつが貿易であることは自明でありながらも、それを止めない努力が見えないまま3ヶ月が経った。憎しみに燃える相手への「正義」の鉄槌は、いったい何を解決するのだろう。

「開かれた貿易」という自己矛盾する概念。その複雑性から目を背けたくなる一方で、寄る辺無い人びとを思い追求せずにはいられない。

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