Hippo Campus/LP3
Hippo Campusのあまりに素晴らしく、そしてあまりに過小評価されている新譜の話をする前に、音楽(とりわけロック)と青春の共通項に関する話から始める。
一つには、どちらも時間の流れによって強引に終わりが規定される暴力性が潜んでおり、その刹那的な側面に価値が宿る点。何をしても、そして何をしなくても、音楽と青春は確実に終わりを迎える。そしてその中で刹那を受け入れて時間の流れに身を任せつつ、まだどこかで抗っている。この摩擦感覚は、焦燥による快感の増幅に他ならない。だからこそ、両者はそのクライマックスに感情のピークが設定される。音楽ではビートが、青春ではチャイムが、時間に従属しつつも律動による興奮の発現を絶えず促している。
一つには、どちらも「暴発」の美学を有している点。音楽の、とりわけディストーションを意欲的に取り込むようなロックというジャンルは、音や感情の「暴発」というノイズによって歴史を更新してきた側面を持つ。これはギターを用いてきた音楽の歴史を順に追えば見えてくるものなのだが、ロックのように音を意図的に汚して輪郭を歪ませる音楽は60年代に爆発的に発展、即座に市民権を得た。これはギターの音色におけるゲームの上下を完全に転換させた事件だ。60年から69年にタイムスリップして、そこで鳴らされているギターの音色を聞き比べられることができたなら、なんとセンセーショナルだっただろう。
ディストーションギターは弾き手の意図した音色を易々と逸脱する。これによって暴発する想定外の音こそがイマジネーションを掻き立てる。これはギターに限った話ではない。90年代にはDave Friddmanがドラムに過剰なディストーションをエフェクトし、暴発する機関銃のようなサウンドを提示した。またボーカルも加工によるディストーション、そしてシャウトによる人力の歪みの発生によって感情の暴発を想起させてきた。
そして言わずもがな、感情の暴発は青春の病理だ。幼少期と成人期の間に挟まれるマージナルマンとして、自らのアイデンティティが摺りつぶされるように形成されていく。それによって発生する暴発、突拍子もない向こう見ずな言動。青春にこのノイズが無ければ、現代の日本でこの期間だけがほとんど病的にまで称揚されることもなかっただろう。
このようにロックと青春は大きな共通項を有している。ちなみに、ここまでの全ての要素を含んでいるのがNUMBER GIRL。
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「LP3」を聴くまで、僕は正直Hippo Campusというバンドをそこまで特別視していなかった。「Landmark」「Bambi」の2枚はもちろん聞いてはいた。いかにもUSインディー然としたギターの音色と爽やかなメロディー、時折挿入されるシンセサイザーの音色の異質さに驚かされながらも、単純にいつでも聞ける良バンドくらいにしか認識していなかった。抜けるようなドラムの音色がアリーナロックの想起させる瞬間が多々あり、それが少し苦手だった。
「Bambi」に関してはバンドサウンドの解体が徐々に進み、同世代の最先端の音楽への目配せも見られたのかと思ったが、そこに残留するアリーナロック成分が「在りし日のロックの面影」を感じさせる側面もあった。
そこから1枚のEPとボーカルのソロ作を挟んで発表された今作は、上記のインタビューにもある通り、同世代のCeleb Hinzというプロデューサーを登用して心機一転を図った。ここで同世代のプロデューサーと組んだことは、「LP3」という傑作が懐かしさと新しさを両者のエッセンスを損なうことなくパッキングしている事実と地続きだろう。
「LP3」のリファレンスが00年代のポップパンク、ParamoaやSum41にあるのは一聴すれば理解できる。M3「Astray」冒頭の単純明快な、掻きむしるようなパワーコード一つで、このアルバムの志向する地点は明確に示されている。Hippo Campusと、その同世代のプロデューサーCeleb Hinzにとって、これらのリファレンスは明確に「青春の音楽」だ。
これらと同じようなリファレンスを共有するのは、同じく00年代を青春として経験した100gecsやunderscoresなどのハイパーポップ勢だ。彼らは青春期に経験した音楽体験を、時折自らの身体性をDAWやSNSに仮託させながらも、ごく正直に表現してきた。その青春期の音楽体験の中にポップパンクは刻まれており、躁的な表現を「暴発」させる彼らの音楽の一部として顔を覗かせていた。
「LP3」は、ロックバンドがあえてロックに縛られつつも、20年代にロックを演奏する意義を拡張した傑作だと思う。ハイパーポップがある時代に、4人の青年が集まって演奏を始める。この行為が持っていたロマンを、バンドサウンドの解体から半ば反するような形で洗いなおしたのだ。彼らは懐かしさと新しさの同居を、懐かしさの中から見いだした。
音数は1stの頃にまで抑えられ、ビートも整然としている。トライバルなパーカッションが終始鳴り続ける上でJakeの歌声が、時折分裂しながら進行するM2「Blew Its」も、音数に限れば過剰とも言い難い。先行曲のM9「Boys」も大仰なコーラス部のメロディとそれに呼応するリフの絡みを、驚くほど正直に投げかけている。
正直な青春時代の回顧と、それまでに通過してきたバンドの道程の邂逅。これらを突き詰めた結果、この作品は時代と整合性を保ちつつロックの可能性のオルタナティブを(図らずも)提示した。あくまでポップパンクとの比較なので、そういう意味では可能性の拡張というより単純な他ジャンルへの併合が完了したことノ倒錯した結果なのかもしれないが。
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「LP3」の冒頭、「2 Young 2 Die」は過度に歪んだギターの音色が唸りを上げている音から始まる。ヴァース部分ではくぐもったドラムの音や上をなぞるピアノとJakeの歌声が楽しいが、コーラスに入ると吹き荒ぶようなディストーションを施したドラムが前面に現れる。その後もエフェクトによるボーカルの分裂やビートの分裂、そして最後にはギターの歪みとドラムの爆発と「too young too die」というセリフが舞い上がっていく中で強引に切断される。
上の要素と、先ほど挙げた「音楽と青春の共通項」は符号している。「LP3」は限りなく刹那的なアルバムだ。
冒頭4曲の終わりは、青春の終わりに感じる焦燥感のカタログのようだ。先程のM1「2 Young 2 Die」は映画の予告編のように最も感情の昂る場所で切断され、M2「Blew Its」は人混みの中のAirpotsのようにプツプツ途切れて曲の原型を瓦解したまま終了する。M3「Astray」ではパンキッシュな演奏を、アンプからシールドを強引に抜くようにフィニッシュさせM4「Bang Bang」ではビートにスクリューをかけて現実に引き戻すような構成に誘因している。
何もしなくても音楽と青春は終わる。そのことを引き受けながらも、Hippo Campusは曲を、青春を強引に引き剥がして切断する。これは決別ではなく、青春時代の回顧として最も誠実な方法だと僕は考える。終わってしまった過去を弔うために、その切断をやってみせることでそこに宿る刹那を逆説的に前景化させる。
また歪みの生む効果、とりわけドラムのディストーションがこのアルバムのサウンドに寄与している部分は大きい。ドラムにおけるディストーションは音の改変そのものであり、抜けを良くしてアリーナでの鳴りを志向するようなサウンド=以前のHippo Campusサウンドとは真逆の試みだ。ドラムに関して言えば、アリーナ志向とディストーションは鳴りの観点から対極に置くことができるだろう。そして、それはサウンドの目指す地点のベクトルが逆を向いていることも意味する。つまりは、アリーナのような大きい外側への発信ではなく内側の爆発、暴発をディストーションサウンドは想起させる。
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「I can't waste more time 」「All this time down the drain」など、このアルバムには「時間の無駄」というキーワードが歌詞の中に散りばめられている。Hippo Campusは、自分たちに宿る刹那を自覚的し、暴発と歪みによる感情の発露と切断を選んだ。しかし、時間をひたすら無駄にすることへの恐怖からもまた逃れられない。完全に時間を消費することなんて、できないのに。だが、それがどうした。時の流れが与える恐怖と快楽は不可分の関係にあり、相互に補完し合っている。そのもどかしさ、その相剋の表れこそが「LP3」のエッセンスなのだと思う。
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