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台本のない殺陣ーblack midi/Hellfire

black midiを聴くと元気になれる。デビュー前のKEXPのライブ映像で愕然として、そのままの勢いで1stアルバム『Schlagenheim』を過剰摂取した3年前。このときは「シリアスなセッションバンド」という印象が心のどこかにあったが、それは次のシングルの「John  L」でひっくり返った。演奏とアイデアが認知の埒外過ぎてもう笑うしかない。楽器やってる友達にMV見せたら、みんな同じようなリアクションだった。わかる、なんか面白い。こんなにも陽気な気分になれるポストロックはそうそうない。

black midiに潜むおかしみをもう少し咀嚼して考えると、それはやっぱり(主にドラマーであるモーガンの)人智を超えた演奏の上手さからくる照れとか畏怖とかなんだろうけど、今作『Hellfire』を聞いて他の要素も少し思い当たった。彼らは2ndからジャム要素を強めた構成に強めたとインタビューで語っているけど、その構成の妙味はとてもインプロ志向のグループとは思えない。もちろん前作からもはっきりと歌を志向している曲もあったりして、インプロ一辺倒じゃないのは明らかだけど、「Dangerous Liasons」の後半のリズムの切り返しとか「27 Questions」のリフの面白がり方なんかは、インプロが生む偶発性を「なぜか適度に」調整しているような感触だった。このチューニングの合わせ方は、彼らがよくリファレンスにあげる/あげられるようなフリー・ジャズで用いられる方法論ではない。

むしろ今月のミュージック・マガジンよろしく、black midiはキング・クリムゾン=プログレの文脈で語られることがここ一年でめっきり増えた。確かにサウンド的には直球でクリムゾンフォロワーなのも頷ける。しかし、全体を俯瞰してその統御された美しさを鑑賞するような荘厳さがblack midiにあるかというと、それは頷けない。アルバム全体の起伏の付け方やホーン隊の放し飼い具合から、black midiの曲はもう少し一人称視点で鑑賞してみたくなってしまう。次の展開への移り変わりなんて予測しないで、だらっと聴くことを許すだけの緩さが2nd以降にはある。これも冒頭のおかしみを構成する要素だろう。

「偶発的なセッション」と「統御されたプログレの美しい構成」の折衷点にblack midiがあるとするなら、それはロックの歴史きっての偉業なんじゃないだろうか。『Hellfire』から感じる陽性のオーラは——後半に据えられたUSインディー調のバロック・ポップの大名曲「The Defence」を待たずとも——そこかしこに満ち満ちている。それはもはや、トンチキと言っても差し支えないほどに。

このアルバムを聴いて、私は時代劇の殺陣を想起した。殺陣では主人公がAの動きをすると、相手の侍はA‘の切られ方をする。この呼吸の合わせ方を、台本の中で敵同士として描かれている二人がやってみせることに殺陣の魅力がある。ここに潜むトンチキさ——それは敵同士が呼吸を合わせる倒錯関係にもあるし、「時代劇を観る」という行為自体のおかしみかもしれない——と、侍のセクシーな身のこなしと、侍の手に握られている刃の冷たさが、『Hellfire』のサウンドとダブって見えたのだ。Aのリズムにギターと歌がA‘のこなしかたをして、数小節経つとBへと移行していく。セッションはもちろんシリアスそのものなのだが、その身のこなしかたや曲全体で俯瞰した時の構成——「Sugar/Tzu」のような構成のヴァリエーションが比較的少ない曲でも、ドラムのパターンやホーン隊の使い方で自在に曲を折り曲げているのは驚異的だ——で、調和を乱さない程度に均衡を保っている。

バランス感覚に溢れた、侍たちの流麗かつ戯画的な殺し合い。black midiの驚異的な新譜は、鍛錬されたアクターたちによる殺陣の断片だ。ただ、この殺陣のアナロジーに一つ異を唱えるとするならば、時代劇の殺陣に台本があるのとは違って、black midiは即興でこれをやっているのだ。もはや笑うしかない。

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