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23年7月熊野灘めぐり(1日目)

 7月15日~17日の3連休で尾鷲~熊野(木本)間のR311沿いをレンタサイクルで走ったときのお話です。総走行距離は150km近くある気もする結構ハードな行程でしたが、そんななかでも熊野灘の魅力に心酔するばかりでした。たらたら時系列で連ねるより推鋲の体裁で書いた方が読みやすいし書きやすい気がしたのでそう書きます。

1.鬼ヶ城

木本から一つトンネル超えるだけですぐ到達。言わずと知れた世界遺産鬼ヶ城。千畳敷が有名なのでそこで帰ってしまう客も多いようだが、実は木本港まで通っており大泊〜木本の松本峠の海側迂回ルートとしての側面もある。とはいえあまりに急峻で狭隘な岩場が続き、今は観光ルートが整備されているからいいものの以前から実用に足るか存在だったかは論ずるまでもない。南伊勢から続く長い長い東紀州のリアス海岸を締めくくるにふさわしい、自然の険しさと美しさが見事に両立した場所であった。

木本の町の足元にある砂浜は七里御浜
本当にここから七里(20km超)ある
千畳敷から眺める大泊湾と磯崎の町
千畳敷から先はこのような道が続く上、柵が無い場所も
正直運動靴の方がいい
クソデカアルファベット…ではない
おまけ
鬼ヶ城センター近く売っていた二食丼
量も質もしっかりあるのに750円という観光地らしからぬとんでもコスパである

2.磯崎

鬼ヶ城入口・大泊からは海岸線を進むこと2,3km、熊野古道は大泊を出てそのまま大吹峠へ入ってしまうのでここ磯崎はルートから外れているが、それを感じさせない栄えぶりがある。先程の鬼ヶ城からもよく見えるわけだが、鬼ヶ城とは大泊湾を挟んで対岸に位置する。海の青さと木々の緑の奥深さ、そんな環境でCの字を描く湾に沿って見事に連なる住宅。追い打ちと言わんばかりの石垣作り。木本側から見たら2つ目の集落ながら、熊野灘らしさに溢れた素晴らしい町である。自身すでに3回目の訪問になるわけだが、最初の訪問時に景観の完成度に惚れ込んで毎回行くようになった。
ちなみに過去は古泊という名前であったそう。実際近くの小学校の廃校は泊小学校を名乗っている。

磯崎の町を俯瞰する。奥に見えるのが大泊。
 下から眺める。凄まじい迫力で町が見下ろしてくる。
R311からの分かれ道を下った集落の入口の光景
宝石を見つけた気分になる
海を挟んで手前に出っ張っている陸地が先程の鬼ヶ城
波のように連なる稜線がまた紀伊半島らしい

3.波田須

 磯崎からは海を離れ山登り。大吹峠を越えた熊野古道と合流しつつ3kmほど進み、辿り着くのはここら一帯では知名度高めの波田須。徐福伝説、秘境駅波田須駅、そして最近は(最近といっても10年くらい経つが)凪のあすからの聖地として何かと話題には事欠かない。確かに波田須を語るうえで徐福伝説は外せない存在である。徐福とは秦の始皇帝が不死の薬を求めるにあたり送った使者だが、波田須の地名というのが「秦住」と、秦からの移住者がいたことに由来する説もあるくらい徐福の存在は大きい。とはいえ徐福伝説は熊野だと割とあちらこちらにあって信憑性も怪しく、例えば南紀の首都こと新宮駅前にも徐福公園という徐福上陸を記念する公園がある。しかしこの地区にある徐福の宮近辺からは秦時代の貨幣が見つかったそうで、かなりのレアケースだ。確かに以前は完全に陸の孤島であり可住面積にも極めて乏しいこの土地に、古くから人間の営みがあったのは異常なことで、ここに異文化の導入があった可能性というのはあり得るかもしれない、なんて考えにも至るほどには強いエビデンスがここ波田須の徐福伝説にはある。波田須も二度目の訪問だが未だに徐福の宮は未訪。なるべく早く訪問したいものである。
 徐福に話題を持っていかれたが、波田須は生活風景も他の集落と一線を画している。波田須の地はとにかく標高が高い。さきほどの磯崎が完全な港町だったのにそこから数kmで標高100m越えの位置に家々が並ぶ。最下部の波田須駅周辺でも十分海を見下ろせる位置にあり、もちろん港というのは持たない。したがって漁業ではなく農業で生計を立てている場所になっている。熊野の海をバックに田畑が広がる光景は対比も鮮やかに非常に美しいもので、これも間違いなく波田須の魅力の一つ。少し特殊ではあるが、その特殊さが波田須を一層輝く場所に仕立てている。

波田須の街並み。磯崎と比べると明らかに稜線が近い。
秘境駅波田須。棒線ホームに簡易的な待合所があるのみ。
波田須駅熊野市方にある棚田。
日本の夏を象徴する二つの要素が凝縮されている。
R311沿いにある飲食店天女座
入口のこのカットが凪あすの2つ目のOPで採用された
ebb and flowの前奏が聞こえてきそうである
天女座は積極的にファンを取り入れ作中の再現メニューも提供している
徐福の宮入口にある徐福茶屋というカフェ
休憩がてらみかんジュースを頂いた。
徐福茶屋のベランダから見た波田須の町と海
たまたま目撃できたキハ25がエンジン音をこだまさせていた

4.新鹿

 波田須から坂を下ること4kmほど、久々に海沿いに降り立ったR311の通行者を大いに歓迎するのは新鹿海水浴場。新鹿の海岸線を覆う砂浜に水色ともエメラルドグリーンとも言えないこの地域特有の色をした波が打ち寄せるこの海水浴場はまさに新鹿の象徴であり、日本一美しい海水浴場との呼び声も高い。7月中旬の3連休、しかも晴れということもあってこの地域にしては見慣れない人の数が。それでも大都市近くの海水浴場とは比べ物にならないくらい自由に空間を使えていそうだった。
 そんな海水浴場を擁する新鹿だが、川が3本流れ込んでいることもあって結構開けている土地である。もちろんコンビニは無いし、商店も1つか2つくらいしか実用性に足るものはないのだが、街並みを見ていればここが付近の拠点として機能していることはよくわかる。道路面では終点の大泊以降初めてのICが新鹿にあるし、今や木本以北の熊野市内では唯一になってしまった小学校と中学校もここ新鹿にある。この小中学校だが、近年建て替えた結果幼稚園から中学校までが一つの建物に集約されたのだそう。単なる機能性強化の観点からも、過疎地域で最大限子供同士の交流も設けるという観点からも非常に優秀なアイデアだと感じるし、各地で普及してほしいと思う。

R311から見た新鹿海水浴場
近くで見てみるとこの透明感
清七屋ストアー
非常に貴重な商店であり、それと共に凪のあすからのモデルにもなった
今回…ではなく22年8月に撮った新鹿の街並み
ある意味看板の数が拠点性を証明しているかのよう

5.遊木浦

 新鹿からのR311は逢神峠へかかる熊野古道ルートとはと再び別れ、海沿いを進み遊木浦へ至る。…至ると書いたが、至るための道は遊木トンネルの開通により分かれ道になったが。このR311も21世紀直前まで全通してなかったのが信じられないほど改良が続く。熊野が古来から津波や高潮に度々襲われてきたことは想像に難くないし、今危惧される南海トラフの津波が押し寄せたときどうなるかというのもすぐ想像できる。基本的にR311自体は標高が高い場所を走る区間が長いし、第一線の災害インフラとして少しでも高規格な道路というのは必要なんだろう。
 さて、どちらにせよ遊木浦に到達。熊野灘を代表する斜面集落の一つであり、コの字型の湾に沿った斜面に家がびっしりと立つ。家の数からしても規模が大きいのが分かり、入江の最深部には3階建ての立派な漁協がある。湾に沿って並ぶのは家だけではなく、海岸線を漁船が埋め尽くす。まさに圧巻。有名であったサンマ漁は既に廃れたと聞くが、この遊木浦の街並みは歴史と共に現在も動き続ける遊木浦を語っていたと、そんな風に思えた。

高台から遊木浦を俯瞰する
同じく斜面集落の磯崎と比べると非常に広がりがある
漁船と遊木浦漁協
沿岸部だけではだけではなく奥にも町が伸びる
写っていないが最深部には遊木小学校(休校)も
使える土地は全部使うという気概を感じる
遊木浦の入口
右側の看板は3日目に訪問した井内浦農村公園と関係があるが、
詳しくはそちらの項で話す

6.二木島

 ここからも観光を続けたいところだったが、単純に見積もりが甘かったため既に遊木を通った時点で17時半となっていたのにこの日のうちになんと30km以上走り、20時ごろには九鬼に着かねばならないというかなりの弾丸行程を強いられることに。そのため遊木を発って二木島からはほとんどドライブスルーでの観光となった。とはいえ二木島においてR311は集落の上方を通るので中心部あまりよく見ることができずじまい。ただ曽根次郎坂と別れるあたりの橋から二木島駅と二木島湾の一部を覗くことはできた。ここ二木島は古くから寄港地として栄えた上もっと古くは縄文の遺跡もあるという相当な歴史を持つ場所であるが、紀勢本線が開業するまで木本に向かうにはひどく時間のかかるバスか巡航船しかないというまさしく陸の孤島状態が続いていた場所でもあった。それゆえ1959年に紀勢本線最後の開業区間中の1駅として二木島駅が開業したときの住民の喜びは計り知れないものがあったであろう。今や国道も十分に改良されモータリゼーションが進み以前ほど鉄道が住民に利用されることもなくなっただろうが、鉄道が地方においてほぼ唯一の移動手段であった時代が存在することを改めて認識した。

二木島駅と二木島湾
紀勢本線では二木島俯瞰という撮影地として知られる
太郎坂広場
二木島湾が一望できる

7.甫母

 R311と二木島町内を通った道が合流すると、今までなんとか2車線確保されていたR311が急に酷道時代を思い出したかのように狭い道路になる。このすれ違い困難な道はしばらく続いて結局次の集落である甫母まで続くことになる。かくしてこの甫母は集落内の主要道路がすれ違いも困難な1車線道路となっている。この区間は流石にR311内でも屈指の狭さらしく、間違って大型車が入らないように16km手前の大泊から注意看板が掲示されていた。鉄道も通らずバスも通らず、自家用車で行こうにもここまで道が狭いとはなんとも不遇に感じる。集落を見て回る時間がないので手短に高台に登り一望するに留まったが、それでも他の集落に劣らずの密度を誇る街並みがあった。

甫母の街並み
写真ではほぼ写らないくらい狭い道が堤防の内側に走っている
高台へ向かう階段
おまけ:盾ヶ崎
甫母から1.5kmほどにあり三重県天然記念物
この裏に柱状節理と千畳敷が広がる
神武東征の上陸地であるとの伝説もある

8.三木里

 甫母を出て既に日没が近く、急いで市境も超えて賀田も超えて走り続けること15km、すっかり夕焼けに染まる空の下でようやく一息つけたのは尾鷲市三木里。三木里港は漁業だけではなく石材の積み出し港としても活躍する港とだけあって、水運が使えるだけの川に恵まれている開けた集落である。また熊野古道最大の難所とも言われる八鬼山越えの南端でもあるからそのような歴史的背景も抱えている。新鹿同様海沿いにビーチがあり、夜19時近くながらまだ多くの客が残っていたのが印象的。ちょうど夕刻とあっていくつかある民宿の前に観光客が集まっており、ちょっとした観光地らしい賑わいも感じられた。

夕焼けの三木里
三木里海水浴場
この時間でも多くのテントがまだ残っていた

9.九鬼・宿

 三木里から街灯も対向車もまともに存在しない暗闇の国道を1時間近く走り、ようやく宿泊地九鬼に着いた。町中だろうと暗くてまともにモノを見ることができないのは変わらず、疲れもあって急いでチェックイン。とはいえ久しぶりに光の無い夜というのを体験できたのは新鮮なことだった。この日の宿は縁場せいじら。古民家を改造したゲストハウスだが、値段(2500円)の割に部屋はしっかりした和室が一室利用できてアメニティこそないもののお湯などの調理設備には困らず利用できた。なにより漁村の民家にて夜を明かすという体験ができたという点に大きな価値があった。

分かりやすく表にあるわけでもなく、
狭い路地に他の民家同様に立っている縁場せいじら
部屋
エアコンこそないが扇風機もコンセントもある

以上で1日目は終わり。翌日は日没後に通過した箇所に戻ったうえでめぐり、最終的に尾鷲市内を目指す。

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