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「表現の不自由」は誰の勝手か

話題になっていたのは知っていたが、詳しくは存じ上げなかった。
正直、興味もなかった。

表現などは手前勝手にするもので、評価は状況や時代ですら異なる。
作品の是非は、その点も含め、そういうものであろうと私は思う。
何であろうと残る表現は残る。
ただ好き勝手に行った表現は、誰にも知られず勝手に終わる。
そういうものだと思っている。
が、何者かの思惑で認められなかった表現を不自由として敗者復活させようという奇を衒った企画が物議を醸しているという程度に知っていた。
是非を世に問う、という建前の興行。
そんな認識でいた。

「何かに似ている」と思っていて、この記事で合点がいった。
素人演劇(あるいは小劇場系)コミュニティである。

素人演劇というのは、おそらくは経験者にしか理解が出来ない不自然極まりない、とても同情的な集まりに仕上がっている。

端折れば「観に行くから観に来てよ」が暗黙の基盤となって、それぞれの劇団を成り立たせ、役者を名乗らせる互助会のような仕組みだ。

これは、やがて数団体のうち集客力のあるところが自治体なりを舌先三寸で丸め込みスポンサーに仕立てて興行を打つようになる傾向がある。
からめ手は、地域の文化振興。

とっつき易い、いかにもな売り口上だ。

かく言う私も、若いころに素人演劇をかじり都内の自治体から予算を貰って数年ほど区立の大そう立派なホールを使わせて頂き、イベントを運営していた経験がある。当時も踏まえ、どうにも私には同じものに思えた。

立川志らく氏が当該イベントの監督だとかいう方と質疑したという内容も、ちらと目にした。

志らく氏が子どもはいるかと前置き、いないとの答えに「お子さんじゃなくても自分の親、子供にいろんな理由をつけてそれも表現だといって自分の親の写真を焼いたり踏んだりそれも芸術だと言ったらどうしますか?」と尋ねると、「それは、その作品のそもそもの力というかきちんとした文脈があってそういうことをやられているんであれば自分が不快になるかということと別に表現の自由のひとつだと思っています。自分自身が不快になるかということと、表現の自由の範囲であるかは別の問題であると思うので」と答えたという。

内容の是非と表現の自由は別物である、という。
まるで逆説のテロリズムのようだ。

表現する権利は、誰にでもある。
そこには同意できる。

それは目が覚めて「おれは表現者なんだ!」と自覚する自由なのであって、向う三軒両隣を気にせず叫び続ける行為も容認すべきというのは違う。

何がと問えば表現なのだろうが、誰と問えば表現者の不自由としか思えない企画に成り下がっていないだろうか。

私は、そう感じた。