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見るのも嫌なんて言うやつのほうが笑われる世界であれ

もう20年くらい前、ほぼ毎日のように入り浸っていたバーでのこと。
リアルな差別的な発言ってのを生まれてはじめて聞きました。
「わたしクロンボきらいヨ」と、口にした言葉をハッキリと覚えているのは驚きのせいか、もっと別の違う何かだったのか。

ともあれナマで聞いた、はじめての差別的な発言だったわけです。

言うひとって本当にいるんだ..とも思いましたね。
きちんとアフリカンアメリカンに対しての問題を日本で育ちながら知るのは難しいっちゃ難しいし、たとえば映画とかドラマのセリフみたいなイメージのほうが強くて、むしろニュースで聞いても対岸の何とやらだったもので。

世界には、もうずっと差別がある。
こればかりは申し訳ないけど、たぶん私自身にも似たようなものはあって、下に見ている瞬間みたいなものを自覚することもあります。
まったく掛け値なしで「ない!」と言い切れるひと、いるんでしょうか。

引用の、北丸雄二氏のインタビューに納得させられる部分がありました。

こちらは自分の生きる在り方を話しているつもりなのに、相手は単にセックスの話だと受け取るという、まるでバベルの塔みたいな思いの不通

記事中の引用『愛と差別と友情とLGBTQ+』より

これは確かに、差別の根幹にあるものな気がします。
同時に、そう聞いてしまう相手が悪いのかとも思っちゃうんです。
ここだけを切り取っているから、という気もするけど「伝えようとしている内容のすり合わせ」が出来ていないからの不通というか。

それでも通じない相手がいて、やっと差別になるんじゃないでしょうか。

伝えようとしている内容のすり合わせをしても相容れないなら、それは見解の相違で、誤解を恐れず言えば思いが通じ合うこともないんでしょう。
価値観が一律で同じってほうが、世界として気持ち悪い。
ただ、価値観が違うから「見るのも嫌」なんて言うのは我がままであって、疑われるのは言ったほうの人間性。

そういう、価値観を振りかざして世界を否定することが差別なのかも。

一方的な言い分じゃなく、これに続く記事の結びでも書かれているように、まず議論すること。そのうえで相容れないなら、もう仕方がないかな。
自分の言いたいことだけ言って、そっちはそっちで好きに言えば? なんてのこそ差別を生んできた考えなのかもしれない、なんて思った日曜日。