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サイバーパンクなんて、もう流行らないと思っていた

酸性雨の降りしきるスラム街で、というのがお決まりのイメージだろうか。
どうあっても「ブレードランナー」になってしまうのは、確固たるエポックメイキングであったからだろう。
マンガやアニメであれば「AKIRA」に「攻殻機動隊」だろうか。
「マトリックス」は、少しスタイリッシュが過ぎる。

サイバーパンクという言葉は、なんとなくの泥臭さも漂わせる印象がある。

学生のころ、とにかく読みふけった。
「クローム襲撃」や「ニューロマンサー」から「カウントゼロ」に「モナリザ・オーヴァドライヴ」の電脳三部作。とにかくギブスンだった。
そこから始祖フィリップ・キンドレド・ディックにマニア好みのルーディ・ラッカー、ポストサイバーパンクのニール・スティーヴンスンなら「スノウ・クラッシュ」がおすすめ。
文庫の表紙絵は雰囲気が台無しと酷評されたが、大いに気に入っていた私はスノウ・クラッシュの文庫を飾る様に並べていた。

いまにしてみれば、何が切っ掛けだったのかも思い出せない。
ふと手に取ることもなくなり、全くと言い切れるくらいに読まなくなった。
ちょうどゲームで徹夜をしなくなった時期に重なるような気はする。

去年の秋に、PS4を買った。

ほぼ毎週というくらいコントローラーを握るようになった。
通勤で、本を読むようにもなった。
といっても紙の本を持ち歩くことはなく、スマートフォンで読む。
Kindle版で「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」などを読むと、身近さゆえの泥臭さだけアップデートされて不思議な気分になる。

サイバーパンクであったものから「近未来」というエッセンスだけ欠落していくような、少しずつ希薄になっていくような感覚がある。
いわゆるサイバーパンク的なものが日常に侵食してきているからだろうか。

「もうあるな」であれば良いが、先へ進んでしまっているものすらもある。
サイバーパンクなど前時代的な近未来である、という気にもなる。

もっと高純度のSFか、でなければネット依存で異世界へ転生するガジェットに成り下がるか。サイバーパンクの先行きは厳しいのかもしれない。
そう思っている。

が、すこし楽しみにしているニュースがある。
コロナ渦で当初予定からは延期になってしまったが、新しい入口だ。

ちょうどPS4を買って始めたゲームは、「Red Dead Redemption 2」という西部開拓時代の終わりを舞台にした物語だった。
用意された仮想の箱庭で、無法者として暮らし過ごす。
さらには見知らぬプレイヤーと共闘したり敵対したりという遊びもできる。
ステージ設定が限定されたサイバーパンク的な楽しみと云えなくもない。

前述紹介の「サイバーパンク2077」は、"ダークな近未来の街"という箱庭でサイバーウェアによる身体強化を施して暮らし過ごす。
こちらも見知らぬプレイヤーとの共闘や敵対してのオンラインプレイも予定されているらしい。サイバーパンクをサイバーパンク的に楽しむわけだ。

紙媒体でもディスプレイでも、文字を追うというアプローチは違わない。
が、コントローラーを介して体感できるとなれば別ものである。

たとえばスクリーンで姿を見せる前からリック・デッカードはブレードランナーであったし、ジョニー・ニーモニックは記憶屋であった。
バレットタイムが記憶に残ったのも、目新しいアプローチであったからだ。

同じことが、もしかするとゲームでも起こるかもしれない。
だから楽しみにしている。

もう一度、サイバーパンクの再起動する瞬間が来るかもしれない。
少なくとも私の中で。