見出し画像

部分点

違う人生を生きる世界線だってあったはずなんだよな、と思う。

あの時の選択を間違えていなければ、色んな出来事が少しずつずれていれば、今よりももっと理想的(であろう)な人生を送れていたはずなのだと思うとなんとも形容し難い気持ちになることがある。

人生は思い通りにいくものだと本気で信じていた時期があった。

そうでないと知った時のショックはそれなりに大きかった。何が悔しいかといえば、出来るはずのことを出来なかったことだ。石油王になる、みたいな100%無理な人生なら諦めもつくが、自分の選択次第で実現可能であったはずの人生を自分の選択ミスで取り逃がしてしまっているから、いつまで経っても後悔が消えないのだ。

今の自分には概ね満足している。素敵な友人に出会えたし、日々楽しく過ごしている。ただ、今の人生とは全く別の人生を歩んでいた可能性もあったわけで、その選択を出来なかったという事実が時々重くのしかかる。

人生はトレードオフだ。
Aという人生を選んだらBという人生は選べない。

よく「正解の道を選ぶのではなく、選んだ道を正解にする努力をしよう」みたいなことを言う人がいるけど、それは結局その人の選んだ道がたまたま正解だっただけなんじゃないか、と思う。

正解の道を歩んでいたから努力が正解に繋がっただけで、努力をしたとて、その道が正解になるとは限らない。努力した結果正解の道だったと判明したからこそ、そのような言葉が出てくるのだと思う。

どの道もフラットで自分次第で正解を作り出すことができるとは僕は思わない。どの道が正解なのかは初めから決まっているような気がする。そうでないとこの気持ちを説明することができない。せめて自分が選びたかった道は正解だと信じることくらいはさせてほしい。

しかしながら、正解と幸福は可分である。幸福か幸福ではないかの二項対立ではなくグラデーションの問題。だから正解の道を選べなかったとしても、それなりに幸せな人生を送ることは出来る。

努力によって自分が選んだ道を正解にすることは出来ないが、不正解を避けることくらいは出来ると思う。部分点を狙う人生。結局みんなそうやって部分点を取りながら生きているのかもしれない。100点は取れなくても100点に近づけることはできる気がする。というか、そうであって欲しい。

この先に何があろうと、過去から未来まで含めて100%満足だと言える人生になることはないだろうし、ここから死ぬまで色々な後悔を背負いながら生きていかなければいけないのだと思うと暗鬱した気持ちになることがたまにある。

とはいえ100%満足な人生を送っている人の方が圧倒的マイノリティだろうし、不変の過去とどう付き合いながら生きていくのかが、人生というものだったりするのかもしれない。



もしかしたら今の人生が正解なのかもしれないし、そもそも正解とかないのかもしれないとは思うけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?