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『デザインされたギャンブル依存症』ナターシャ・ダウ・シュール著、日暮雅通訳(青土社、2018)を有栖川帝統のおたくが読んだ感想

なぜこの本を買って読んだのか。
それは、記事のタイトルにも記したとおり、わたしが『ヒプノシスマイク』の登場人物である有栖川帝統くんのおたくだからです。

ちなみに、当該書は2018年7月10日に刊行されており(原書自体は2012年刊行)、わたしが有栖川帝統くんが推しだと自覚したのがその9日後の7月19日……ということで、もうそれだけで運命を感じざるを得ません。ありがとう。

というわけで、読みました。

“デザインされた”とタイトルにあるとおり、当該書自体はいわばカジノにおけるインテリアデザイン論で、人間を相手にするギャンブルではなくギャンブル・マシンを通してギャンブル依存症を患ってしまった依存性者への詳細なインタビューを踏まえ、その心理状態を脳科学的に分析する、という内容になっています(ざっくりでごめんなさい)。
帝統くんのキャラクターソング『3$EVEN』の歌詞や、『ヒプノシスマイク-Division Battle Anthem-』の帝統くんパートを見ても、彼が最もハマっているギャンブルはおそらくマシン・ギャンブルなのだろうと推測され、そうなると当該書の事例は帝統くん推しであればかなりぐっとくる内容だし、彼の人間性に還元してもよいのではないかと思えてきます。最高。

まずは、ギャンブル依存症者の方の心情について、印象的だった部分について、以下。

「マシン・ギャンブラーがやみつきになるのは、勝つチャンスにではない。マシン・プレイがもたらしてくれる、世界が溶けて消えていくような、主観が一時停止して感情が落ち着く状態に、やみつきになるのだ。」(p34)

「お金はまるで神のようでした。どうしても欲しいものでした。でもギャンブルにおいては、お金には何の価値も、何の重要性もなく、ただのものでしかない――私を〈ゾーン〉に連れていってくれる、それだけです……価値を失い、やがて何の価値もなくなります。〈ゾーン〉以外は――〈ゾーン〉が神になるのです」(p303)

FlingPosseの出会いの音声ドラマで「ギャンブルさえずっとできれば最高なんだよ」って言っている点から見ても、有栖川帝統はいわゆる“大金”が欲しいわけではなくて、「スリルと興奮」を味わいたいからギャンブルをしたい、その行為をし続けるためのお金がほしい、というような心理なんだろうし(生活のためでもあるんだろうけど)、「お金に価値がない」っていう依存症者の言葉を読んで、やっぱりそういう心理状態って存在しているんだなと思えました。

あと、帝統くんって、「有栖川」っていう苗字と「帝統」って名前からしても、育ちがいいのではないかとか、実はそういう血筋なのではないかとか、そういった考察もなされているじゃないですか。それってどうなんかな、どっちでもいいな、というのがわたし自身の気持ちなんですが。

「マシンに向かえばすべてを消去できる――自分自身だって消去できます」(p22)

「いわば、おれにとってマシンは恋人であり、友人であり、デートの相手でもある――だけどほんとは、そんなもんじゃない。掃除機だよ。おれから人生を吸い込む、人生からおれを吸い込むんだ」(p281)

ゴッフマンは、社会とのつながりのない人間が、「自分は社会的に認められた人格の持ち主だとマシン相手に実証してみせる」方法だと考える。(p21)

ギャンブルにはまったのは、家族からの孤立、友人への幻滅、社会全体からの断絶に対する反応のせいだった(p294)

彼らが追求しているのは、社会的、経済的、個人的な生活のなかで経験する不安定から連れ出してくれる、信頼性、安全性、感情的落ち着きだ。(p312)

弱冠二十歳にして、どうしてギャンブラーとして生きているのか、どういう過去の持ち主なのか、まったく描かれていない有栖川帝統くん。もし何か過去にあったんだとして、「社会的つながりの世界全体――その過剰も、耐えがたい欠如も――からの逃避」(p294)「大きな不満の内在する批判」(p286)がギャンブル依存への原因だとすれば、それはもう、涙なしでは語れないじゃないですか……

いや知ってます。もっとあっけらかんとした過去が明かされてズコーってなる結末がくるってことを、わたしも長いことおたくやってるのでわかってるんですけど、こういうのをこじつけていくことが楽しい。

敗北に打ちのめされているときに転勤や病、暴力、別離、死といった不測の事態に襲われると、彼らは自身のギャンブルから生じる事態をコントールしていると感じる。コントロールした負けは、コントロールできなかった負けから生じる受け身の苦痛を、より能動的で支配可能なものに変換するための手段だと言う。ケネス・バーグは、予期せぬことが起きた場合にふつうの人が見せる反応について書いている。「障害物につまずいた場合、それは行為ではなくただの動作だ」。「ところが」と彼は負けをコントロールしたがる依存性者の望みについてこう続けている。「この単なる偶然の出来事を、行為のようなものに変えることがある。まるで倒れているあいだに自分の意志に基づいて転倒したのだと考えるように。」(p326)

偶然、思いがけず、何かかなしい出来事が起こってしまった、それを「偶然」ではなく「自分がコントロールした」と思わせてくれる、そういう心理状態にしてくれるギャンブル。不確定に見えて、勝つか負けるかどちらかしかない確実性。大切なものがいなくなることですら「コントロール」しているという感覚。
もし、万が一そんなものが彼にあるとするならば、わたしは全力で彼が幸せになれるように祈るのみ……、祈るしかないんです。おたくなので。運営さんに託すしかない……どういう子なのかはやく教えてください……おねがい……

「たいていの人が、ギャンブルはまるっきりの運まかせで結果はわからない、と考えています。でも、マシン・ギャンブリングの結果なら私にはわかります。私は勝つことになるのか、負けることになるのか、どっちかしかない。……だから、本当はぜんぜんギャンブルなんかじゃない。――そう、私が何かを確実だと思える、数少ない場所のひとつなんです」(p311)

〈ゾーン〉にいるギャンブル依存症者は、日常生活で直面する選択の連続から解放されることを求めているのに、彼らは積極的な自己という苦境にとらわれたままなのだ。(p313)

正直「ギャンブル」について全然知識もないし、自分自身のなかにそういう感覚ってソシャゲのガチャくらいしかなかった(あれも依存っぽい気がする)ので、大変いい勉強になりました。個人的に一番衝撃だったのは、「負けるためにギャンブルをする」「最初から勝ってしまうと〈ゾーン〉に入れないから残念」「負けてすっからかんになることでギャンブルをやめることができる」という……、「そんな?! まじか〜!」みたいな……「帝統くん……まじか……」みたいな……(涙)

当該書自体はマシン・ギャンブルに限った内容になってましたが、おそらくライブのギャンブルでも、それこそソシャゲでも、すべてに通ずるところがあるのだろうなあと感じさせられる内容でした。読んでよかった。

ギャンブルのクレジットは、彼女の目を覚ましておく興奮剤だ。エネルギーはすべてそれが消えることに使われる。すべてなくなったときに初めて、彼女は眠りにつけるのだ。(p340)

眠りたいのにクレジットが尽きなくて眠れない有栖川帝統、良さがありますね……(おわる)