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「祖父の山」

 飲み屋で知り合った、伊藤さんという男性から聞いた話。
 彼の生家は某県の山間の集落で、実家も代々林業を営んでいたそうである。
 杣人であった祖父がよく彼に言い聞かせていた昔話があったという。それは以下のような話である。

 自分達が住む集落から東へ入った山には、昔は「ヤマモリ」という、猿のような黒い体に、赤い顔の妖怪が居たという。体が小さく俊敏で、ひどい臭いがするので隣の尾根にいるのも分かった。
 ヤマモリは悪さはしないが、荒神の使いであると言われていて、山で無作法があれば祟ると畏れられていた。
 「あの山さ入る時はよ、刃物忘れちゃなんね、鉈でも鎌でも、身代わりになっから」
 もう山仕事を引退した祖父は、囲炉裏に当たりながら繰り返し伊藤さんに語ったそうである。

 数年後祖父が亡くなり、相続の関係もあって半ば放置されていた山林へ父と入ることになった。その時伊藤さんは高校2年生だった。

 集落の知り合いと連れ立ち舗装林道を車で登り、さらに小さな脇道を上がると、大きな岩が転がっていた。その先が伊藤さんの土地であるとされていた。
 
 伊藤さんは道すがら、祖父の話を思い出していた。今もヤマモリは居るのだろうか。祖父は「集落から東へ入った山」と言っていたが、該当する土地はまばらにいくつかある。今自分の立ち入っているのもその一つだ。痩せた杉の木立と背丈ほどの枯れ薮に行手を阻まれ、土地の範囲も判然としない。晴れた午前中であるが光は届かず、父も伊藤さんも黙り込んでしまった。結局その日は何も手をつけられず、山を後にした。

 帰路、リュックサックの中で小さな音がしているのに気づいた。何だろうかと帰宅後荷物を開くと、筆箱の中にあったカッターナイフが、折れ目から全てバラバラになって散らばっていた。
 カッターナイフは、あの祖父の言っていた「身代わり」となってくれたのだと、背筋に冷たいものが走った。しかし考えると、祖父の大切にしていた山や土地に、今も何かが息づいていると思うと嬉しいような気もしたそうである。父の持参した山刀には、元々あったものか分からないような、小さな刃こぼれが出来ていた。

 残念ながら土地は売られてしまい、今では誰の手に渡ったのか分からないそうである。

 伊藤さんから聞いた話。

 

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