見出し画像

「和櫛」

 北陸某県に住む友人に聞いた話。

 普段は自家用車で通勤している彼だが、職場で納会があり、酒が入っていたため自宅の最寄りまで電車で向かうことにした。

 遅い時間の2両編成の電車の乗客は疎らで、どことなく居心地の悪さを感じていた。彼は飲んでいるうちは楽しいが、一人になると途端に気分が悪くなる性質だった。項垂れて電車の床を眺めていると、視界の端で何かが動いたという。

 そちらに目を向けると、何か小さいものが床の上で動いていた。最初は蝶か大柄な蛾だと思ったという。薄いひらひらした物が、乗降扉の前あたりでくるくると舞っている。不規則に、時々跳ねるように運動しているそれは、しかしよく見ると生物のようには見えなかった。

 動きが緩やかになったとき、彼は戦慄した。
 それは10センチほどの、黒っぽい半月形の和櫛であった。べっ甲かセルロイド製か、かつて母の化粧台の中で見つけたような、古い形のものだった。

 あたりを見回すが、点在する乗客に気づいている者はなかった。からからと乾いた音を立てながら、乱雑な動きで櫛は床を跳ね続けている。それは「燈火にぶつかり平衡感覚を失った虫が、地面でもがいているような」動きであったという。

 タチの悪いドッキリか何かと思い、糸でも付いているのかと見回すが、それらしい物はなかった。
 そのうち、彼の斜め向かいに座り、いびきをかいていた初老の男が唸りだした。酔っているのだろう、頬を掻いて頭を起こすと目を閉じたまま、「おい、さっきから何だ、うるせえぞ」と喚いた。

 すると先程まで盛んに蠢いていた櫛が、突然動きを止めた。
彼は思わず、酔客と櫛を交互に眺めた。男は音が止んで満足したのか、窓ガラスに頭を預けると、再び眠りについた。

 その時である。櫛が突然パキンと音を立て、2つに割れたという。

 それから二度と櫛は動かなかった。彼の最寄りの一つ前の駅で、件の酔った男性が立ち上がり、覚束ない足取りで電車を降りていった。その時、男性はおそらく知らないうちに、その櫛を踏みつけていた。歯の部分が折れる嫌な音がした。

 友人はなにか途轍もなく不吉なものを見ている気がして、最寄り駅に着くまで一度もその櫛に目をやることはなかった。櫛とは反対側のドアを使って電車を出た。

 彼はその後暫く電車には乗らなかったため、それ以上のことは分からず終いだという。

 よく分からない話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?