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「介抱」

 知り合いの寺院の息子さんから聞いた話。
 彼を仮に、俊さんとする。

 俊さんは少し変わった経歴の持ち主である。次男坊だった彼は当初寺を継ぐ予定はなく、大学卒業後は一般企業で働いた。貿易関係の仕事についた彼は数年間台湾に勤務した。激務かつ不規則で、早朝に出勤し午前中に終わる日もあれば、夜間の港に張り付いて翌日の早朝に帰宅することもあった。

 台湾南部の高雄という街で勤務していた頃のことである。台湾には、住宅地やオフィス街に関わらず至る所に大小の寺院が開かれている。道教、仏教の寺院が多く、それらがお互いの影響を受け様々な形で独特の信仰形態を見せる。俊さんは、勤務先への道すがらにある、小さな寺院の時折立ち寄って、手を合わせることがあった。

 数日続いた勤務の最終日の帰路。11月とはいえ、正午の高い日差しを受けた気温は35度に近かったという。熱中症のような症状で歩くのもままならず、件の寺院に吸い込まれるように入り、壁のベンチに倒れ込んでしまった。
 線香の匂いが心地よく感じる。この寺院では常駐するお爺さんがいたし、定期的に出入りする老人たちが多くいたはずだが、そのときは誰も居ないようであった。ペットボトルの水を飲み干すと、俊さんは眠ってしまったそうである。

 何事か話しかけられていた。どれほど時間が経っただろうか、目を開けると、覗き込む人の影があった。女性の声が頭上から降ってきていた。目の悪い彼だが、いつしか眼鏡を胸ポケットにしまっていたらしい。ぼんやりとした視界だったが、話しかけていたのは黒人女性のようで、その輪郭が見て取れた。
 紫色のバンダナと、小さな頭とほっそりとした首筋、そしてオレンジ色のタンクトップ、大きな目。観光客の女性だろうか、何事かしきりに話しかけられているが、ぼんやりとして聞き取ることができない。いま起きます、大丈夫です。俊さんは英語か中国語で呟いて、胸元の眼鏡を掛け、起き上がった。

 コンクリート作りの寺院の中はがらんとして、彼以外誰の姿も無かった。首元に身に覚えのない水枕とタオルがあった。

 奥の事務室にお爺さんが座ってテレビを見ていたので、彼が話し掛けた。よかった、今妻が医者を呼んだんだ、座っているといい。老人は俊さんにもわかるようにゆっくりと喋った。
 彼が勧めるままにカットフルーツを頬張っていると少し体調が戻ってきた。先程の女性にも出来れば礼が言いたかった。老人に黒人女性のことを聞いたが、そんな人は見ていないと言われた。あんたが寝ているあいだ、私と台湾人以外来ていない、とのことだった。


 この話は後日談がある。この女性はその後、彼が帰国し沖縄県で勤務していた頃も度々姿を表した。決まって眼鏡を外した視界の時の中だけに現れ、彼を心配そうに覗き込み、聞き取れない言語で彼に話しかけるのだという。

 実家を継いで僧侶となってからもからも暫くは現れたが、現在の奥様と結婚してからは見ていないそうである。


俊さんから聞いた話。

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