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「笹舟」

ヤマさんという、岐阜県に住むお爺さんに聞いた話。彼は主に山林の測量を仕事としていた。

 90年代後半のある日、ある深山でのことである。彼の他にふたり、計3人のチームで測量地に向かっていた。
 季節は春から夏に移ろうとしている頃で、濃い緑のにおいのする広葉樹の急峻な山林を這うように、小さな沢が流れていた。
 そのエリアは三方が急に高度を上げる、いわゆる袋小路となっていて、登山客はおろか杣人さえ普段立ち入る場所では無かったという。ヤマビルに気をつけろ、と後輩に声をかけつつ、沢沿いの林道を登っていった。

 途中で林道が沢と交錯するが、前年の台風で橋が落ちており、彼らはその瓦礫の上を渡ることになった。
「先輩」ヤマさんと先輩が渡り切ったあと、後ろから後輩の上ずった声が聞こえた。
 振り返ると、何か小さなものを手にした後輩が礫の中で立っていた。

「これ・・・」

 彼が手にしていたのは、まだ青々とした笹の葉で作られた、10センチ程の小さな笹舟だった。水滴を受けて艶々と光り、丁寧に作られたそれは、折られてすぐに流されたものだと一目で分かった。後輩の足もとで留まっていたのだという。

 この先には集落などなく、これまでの路程を振り返っても、登山客や木こり等、誰ともすれ違っていない。辺りを見回すが、鬱蒼とした木立がざわざわと音を立てる他、誰かの姿はなかった。

 三人で顔を見合わせていると、突然乾いた鈴の音が鳴った。後輩のザックの熊鈴が、ひとりでに揺れたのである。

 笹舟を再び沢へ放した。皆何となく手を合わせてそれを見送った。笹舟は急な流れにすぐに呑まれて見えなくなってしまった。

 その日、それ以上の出来事は無かったが、後輩は山を降りてから一晩、何か居心地の悪いような、何か靄がかかったような心地だったそうである。ヤマさんは事の次第を付き合いのある宮司に話し、三人で一応の祈祷を受けたという。それ以降、三人になにか変わったことは起きていない。

 深い山中では、こうした出来事は多くあったそうだ。

ヤマさんから聞いた話。


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