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K値を政策として用いることの問題点

はじめに

この文章は“Novel indicator of change in COVID-19 spread status”のプレプリント[1]を読み、その内容について理解したこととその論文の問題点について日本語で記録しておくために作成しました。
なぜ書き残しておく必要があるかと言えば、私にとって身近である神奈川県がK値を政策判断の基準として用いるなど、既に社会実装されているにも関わらずその根拠が極めて弱いと考えており、それを元に感染症対応されることに危機感を抱いているからです。
簡単に言えば、これまで用いられてきた指標に対して優れている部分が何もなく、政策判断とするための基準もどこにもないことが問題だと考えています。
科学論文としての批評ではありますがあくまで個人的な感想であると理解して読んでいただくことをお願いします。

1. K値とは

K値は大阪大学核物理研究センター中野教授らによって提唱された指標です。
K値はある日の総感染者数を用い、

K = 1 − 1週間前の総感染者数/当日の総感染者数 ・・・(1)

として計算したものです[2]。この1週間の新規感染者数をnとすると、総感染者数がnより大きい時は(式1)を一次近似することで

K = n / N ・・・(2)

と計算することができます。
世界中の国の毎日の感染者数が報道される現在では個人がExcelを使うレベルで容易に計算できる指標であることが特徴です。

2. K値の応用範囲

K値はある範囲(0.9から0.25)で時間に対して線形に変化することが中野教授らの解析によって分かりました[3]。線形に変化するということは、ある範囲で時間に比例して一定の減少幅を持っているという意味です。1日で0.01下がっている時、10日で0.1下がるということになります。
この傾きのことを中野教授はK’と記し、K’は国ごとに違うものの同じ値を継続してとっていることを報告しています[1]。

このようにK’が一定でKが時間に対して線形に変化する時、これからの感染の変化を予想することができる、というのが中野教授らの主な主張になります。
今日計算したK’が-0.01だと、Kは10日後には0.1下がることが予想でき、将来の感染者数の予測ができるというものです。Kが0になれば新規感染者は0なので、感染が終息したことになるからです。

3. 他の指標との比較

感染症の伝搬の指標として一般に用いられるのは実効再生算数(R_t)です。
R_tはある患者が新たに何人の新規感染者を生じたかという数値で、R_tが1より多ければ指数関数的に感染者が増大し、R_tが1より小さければ指数関数的に感染者が減少することが計算上主張されます。
R_tは感染の伝搬形式に則った由緒正しい指標ですが、若干使いづらい指標でもあります。ある感染者が何人に伝搬したかを知るのは事後的に計算されるためにリアルタイム性がなかったり、将来の感染者数を予測した上で計算する必要があるため、現時点での数値に仮定が含まれ、また計算が複雑になり研究者やデータサイエンティストでないと計算が難しいことです。

実効再生算数の取り扱いの難しさへの対応の一つとして、「Rt緊急勉強会」において西浦教授が実効再生算数に近いコンセプトとして

(直近7日間の患者数)/(その前7日間の患者数)

を用いることを紹介していました[5]。実効再生算数と比較する時は、感染力を維持している時間(約5日[6])を考慮すると、この数字を5/7乗することでRtと比較可能な数値になります。(5/7乗については西浦教授がTwitterで紹介していたと記憶していますがURLが見つかりませんでした)

この指標をK値の計算方法(式2)と比較してみます。
今週の感染者数をn_1、先週の感染者数をn_2とします。1週間前の新規感染者数をn_8とすると総感染者数Nはn_1, n_2に対して十分大きいとします。
この時、現在のK値K_1と昨日のK値K_2は

K_1 = n_1 / (N_2 + n_2)
K_2 = n_2 / N_2

と近似でき、N_2とNがほぼ等しくN_2がn_1, n_2より大きい時、K値の傾きK’は

K’∝ K_1 - K_2 ≈ (n_1 - n_2)/N ・・・(3)

となります。
今、新規感染者数が指数関数的に変化しているとすると、

N=N_0 exp(αt)

と書くことができ、変化率dN/dtをNで割ると

1/N dN / dt = α

で一定になります。
K’は今週の感染者数と先週の感染者数の差(dN=n_1 - n_2)を総感染者数(N)で割ったものですので、(式3)で示されるK’が一定というのは、感染者数が指数関数的に(増加または減少方向に)一定比率で変化しているということを意味しているにすぎません。
感染者数が指数関数的に変化するというのは実効再生算数のコンセプトそのものであり、その週の新規感染者数を用いて計算しているということは、K’とは実効再生算数の代理指標そのものです。
従って、実効再生算数(に近い指標)がある範囲では変化しないこと、感染状況などの変化があった時に数値が変化することを「発見」したのが中野教授の論文と言って良いことになります。
実効再生算数R_tは感染者が全体の中で少なく状況が変化しない場合変化しないことや、外部からの感染源の移入や行動変容などを原因として変化することが知られているため、ここで中野教授が主張する発見は、既に知られていたことを包装紙を変えて繰り返しているに過ぎないと言わざるを得ません。

5. K値はどのように利用すればよいのか?

西浦教授が日本について計算し、他国でも同様に計算されているように、実効再生算数は一定ではなく、それぞれの地域の政策や習慣、そして行動変容によって変化することが示されています。
実効再生算数が1を上回るかどうかが感染が拡大に進むか収束に進むかを表しており、R_0のCOVID-19の場合接触機会8割削減なら1ヶ月で収束、7割削減なら2ヶ月で収束と予測されており、これが西浦教授が「8割おじさん」を自称した理由です。ここでは、どの程度の対策を行えばどのような結果になるかが反証可能なモデルとして示されています。実際緊急事態宣言後から7割程度の接触機会削減があり、2ヶ月弱で緊急事態宣言の解除にこぎつけました。予測モデルとして一定の精度があったという結果が得られました。

ではK値はその数値がいくつであれば何を示すのでしょうか?また、変化の検出はどのように行うのでしょうか?
もしその検出方法が分かりやすければ政策判断に使うのは悪くはないでしょう。単純化され、日々の変動の大きな数値をつかっているとはいえ、実効再生算数とコンセプトは同じなのですから。
しかし、私は中野教授が大阪大学のサーバーで公開している文書[1-3]の中に判断基準を見つけられませんでした。
「多くの国で感染収束宣言が出ているレベルであるK=0.05」[3]とは示すものの、K=0.05がなぜ収束宣言を出してよいかは何も根拠がなく、ただ他国でそうなったからというだけです。

それではK=0.05は終息宣言を出すにふさわしい状況でしょうか?
最近60日について調べてみると、感染爆発した後ロックダウンして感染が収まったイギリスやEU諸国は軒並み0.05より小さくなっています。論文[3]Figure 1で示した、K=0.05を下回った国は規制を緩めても感染が拡大しなかったと言えるでしょう。一方、トルコは0.05を下回った後6月に入り0.05を超えています。この時、トルコでは国境をまたぐ移動の規制が緩和されたことが報道されています[7]。
イギリスは6月2日以降Kが0.05を下回っていますが、まだ一日の感染者数が1,000人を超える日が続いています。そして6月7日から規制が強化されました。この判断は間違っていたと言えるでしょうか。
また韓国は5月の終わりに感染の拡大が生じてから規制を強めていますが、韓国のK値は5月に入ってから0.01を下回っており、現在でも0.03を下回っています。

直感的に言っても、一度感染が拡大して収束した後再拡大した場合、分母が大きいのでK値は低いままに抑えられます。ある国・地域で感染が拡大した後収束した場合、改めて感染者が発生してもK値は0に近いままです。Kが0.05より高くなるまで規制をするのは誤りでしょうか?
例えば過去に100万人感染者が発生してその後0になった国で、新たに1万人感染者が発生した場合、K=0.01なのでまだ楽観視すべきでしょうか?
もちろんそんなことは正当化されません。ではどのようにして中野教授らはK値を社会的に応用しようとしているのでしょうか。それは総感染者数の「リセット」によってです。

6.リセットとは何か

一旦感染が収束した後、総感染者数を計算に入れると問題が起きることは中野教授も理解しており、そのために一旦総感染者数を0に「リセット」することを論文中で行っています。いつリセットすべきか、その基準は何かは4/14の原稿でこのように触れられています。

「K 値を求める際のリセット日を 3 月 25 日に設定することで生じる総感染者数算定の系統誤差が 200 以下であることがグラフから読み取れる。」[1]

これはどういうことかというと、K値が線形関数であることを前提として、最も当てはまりの良い日にリセットするということです。
この主張には問題が多くあります。まず、K値が線形であることは中野教授が「発見」したもので実証されたものでないのに、線形関数としてあてはめ、うまくいったらその日がリセット日だと選んでいることです。
次に、いつリセットすべきかは何日も後になってK値の線形性が失われたことを確認した後でないと分からないということです。これはK値の有利な点としていた即時性を毀損しています。
更に、何回リセットすべきか、その基準は何かがどこにも示されていないように思えることです。

リセットは英語の原稿でも行われており、ここではもはや分母が総感染者数にはなっておらず、分母であるN(d)において”d is the number of days from the reference date”とリセット日を基準とした感染者数になっています[3]。Figure 1の日本、韓国、スウェーデンではリセットを行った”reference date”が示されていますが、どのようにしてこの日付を決めたのかの基準は見当たりませんでした。
再現性ある研究を行うのであれば、最低限どのような基準でリセット日を決めるのか示すべきだと思います。もし読者側にそれが分からないのであれば、K値を用いた解析が当てはまらない例をいくら反証として提示しても著者らは任意の時点にリセット日を設定することで反論を封じることができますし、著者ら以外に利用ができないものになってしまうでしょう。


7.最後に

ここではK値について議論してきました。
K値は本質的には実効再生算数を単純化した変形の一例であって、新しい何かではないこと、それを社会実装する際にブラックボックスの部分が大きく、問題があることを指摘してきたつもりです。
このような指標を元にして政策決定することは恐らく混乱を生じるであろうと予想します。現実に神奈川県ではK値の線形性が崩れて久しく、どこかで「リセット」を行わなければならないはずですが、誰がリセットの基準日を決めるかを神奈川県庁の誰も知らない状況になっています。
この混乱は既に評価が定着している指標を使えば回避されるものであり、新しそうだから、メディアで喧伝されたからという理由で政治家が飛びつくようなことがないよう、強く望みます。

参考文献
1. Takashi Nakano, Yoichi Ikeda, Novel indicator of change in COVID-19 spread status
https://www.medrxiv.org/content/10.1101/2020.04.25.20080200v2
2.中野貴志「COVID-19 感染状況の推移について」
http://www.rcnp.osaka-u.ac.jp/~nakano/note1.pdf
3. 中野貴志, 池田 陽一「K 値で読み解く COVID-19 の感染状況と今後の推移」
http://www.rcnp.osaka-u.ac.jp/~nakano/note2.pdf
4. 日本科学技術ジャーナリスト会議主催, 【8割おじさん西浦教授に聞く】新型コロナの実効再生産数のすべて オンライン講演会生中継
https://live2.nicovideo.jp/watch/lv325833316
5.『Rt緊急勉強会』のQ&A
https://note.com/jastj/n/n3c6c2e780ba2?magazine_key=m7bc6499d208c
6. Hiroshi Nishiura, Natalie M Linton, Andrei R. Akhmetzhanov
Serial interval of novel coronavirus (2019-nCoV) infections
https://www.medrxiv.org/content/10.1101/2020.02.03.20019497v2
7.Turkey pushes to ease pandemic-driven international travel restrictions, reports say
https://ahvalnews.com/travel-restrictions/turkey-pushes-ease-pandemic-driven-international-travel-restrictions-reports