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美術館の展示室に寄せて—芸術と救済と—

一歩足を踏み入れるだけで、全てが容受されたような気分になれる場所があります。
美術館の展示室です。

美術館に通いはじめてもう長いですが、そのことに気づいたのは、まだ最近、ここ1年足らずのこと。

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ちょうど1年前の今頃、私は大学の卒業式が開かれなくなったことを知りました。自宅に学位記や最後の成績表がどっと届き、それで大学生活がお終いになってしまったのですが、私は4年間、美術史や芸術学を専攻し、時間とお金の許す限り、美術館を渡り歩く日々を送っていました。

そんな夢のような在学中の4年間では、美術館の展示室を、冒頭に書いたように感じることはありませんでした。むしろ、どこかに卒業論文のヒントが隠れていないかを探して血眼になっており、そんな穏やかな心持ちで美術館にいたことはあまりなかったように思います。

大学を卒業して、芸術とは関係のない民間企業に就職した私にとって、美術館へ足を運ぶことは今や完全に趣味の領域になりました。たとえ論文を書く必要がなくなっても、足繁く通うつもりではありましたが、そのタイミングで世相が狂い、なかなか思うように身動きが取れなくなってしまいました。

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美術館の展示室に、これまでとは違う魅力を感じ始めたのは、一度目の緊急事態宣言が明けた夏、やっと訪れた大阪市立美術館でのことです。フランス絵画を主とした特別展でした。

社会人1年目の慣れない毎日に、自粛自粛で学生時代の友人と会うこともままならない日々。
仕事終わりや休日でさえうまく息抜きができないほど神経が昂っていたのですが、ひっそりとした展示室に足を踏み入れた瞬間、驚くほど身体の力がすうっと抜けていきました。

初めての仕事では毎日注意されて、なかには理不尽なこともあって、それでもやもやしたり、自信を失ったり。そんないまわしいあれこれが、丸ごとすべて許されていくような感覚でした。

そのときは、やはり愛すべき学生時代、長い時間を過ごして苦楽を共にした美術館だからこその居心地であり、ひさしぶりに訪れたからこその安堵感なのかと思いました。

しかしその後、いくつかまた展覧会を巡りましたが、どこを訪れても、初めての美術館でも、その包み込まれるような安堵感は変わりませんでした。これは学生時代に通いつめたからこその懐かしさやなじみ深さ故ではないと気づきます。

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美術館の展示室には、当然のことながら、数々の作品が並んでいます。同じアーティストの作品ばかりの展示室もあれば、いろいろなアーティストの作品が並んでいる展示室もあります。
どの時代の、誰がつくった、描いたものであれ、芸術作品である以上、それぞれが表現したいことを表現し、主張したいことを主張し、自身の内面にあるものを静かにこちらへ訴えてきます。

芸術は自由です。時によって、場所によって、表現に制約があることもありますが、表現したいことがあるならば、その制約をかいくぐっても表現しようとした痕跡は残ります。

言葉では表現できなかった、伝える言葉の持ち合わせがなかった、あるいは声にしてしまえばその後の命が危ぶまれた、そのような極限の叫びまで、絵画や彫刻には表現できます。

芸術家はどこか孤独です。自分だけの世界があるからこそです。しかし、その孤独を作品に昇華して私たちと共有してくださるからこそ、救われる人がいるのです。

拙くて読み返すのも恥ずかしい限りですが、以前、こんなnoteを書きました。

『芸術は孤独からの救済であること』

先のnoteにも書いていますが、作品の向こうには作品をつくった人がいます。
美術館の展示室では、芸術作品という自由の向こうに、自由に生きた、生きようとした人の人生が、作品の数だけ見え隠れします。

社会の枠に嵌り、大きな流れに乗って、口応えをせずに生きることを無言の圧力で求められる日々を生きるなか、美術館の展示室にだけは、無数の自由があふれているのです。

美術館の展示室では、自由を表現した才能あふれるアーティストが、自由を求める私の背中をそっと押してくれますし、無言で孤独を描いた画家と、私の孤独を分け合うことができます。

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どんな時も機嫌のいい振りを強いられて、少し引っかかるようなことを言われても笑って受け流して、そうして毎日少しずつ、少しずつ傷ついてしまった心を、黙って受け止めて、そっと愛おしんでくれる、それが美術館の展示室なのです。

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