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浜崎純江歌集『ポンポン船行く』(青磁社)

浜崎純江さんの歌集『ポンポン船行く』(青磁社)を読みました。

亡くなられた両親や夫への深い思い、そして介護が必要な息子さんとの二人暮らしの日々が描かれています。
大変な日々であったと思いますが、歌にはどこか明るさがあり、作者のおおらかな人柄が伝わってきます。

歌集の後半で息子さんが亡くなられるのですが、その場面は控えめな表現で詠まれています。
そこには歌にできなかった深い悲しみがあったのではないかと想像します。
その詠まれていない部分からも、喪失感が伝わってきました。

歌集の冒頭では、故郷である周防大島の場面が描かれ、その後は故郷を遠く離れた地での生活が続きます。
そして、歌集の最後で再び故郷を訪れます。
そうした歌集の構成も素晴らしいと思いました。

ただ、非常に個人的な内容であるため、作品としてどう受け止めればいいのか戸惑いもありました。


LL(エルエル)の息子のシャツを前に干す通せんぼのやうにぶら下がるシャツ 

p18

体格のいい息子さんなのだろう。介護の場面ではその身体の大きさが作者にとって負担になる。
「通せんぼのやうに」が先行きの不安を暗示している。

行政を利用しなさいと皆が言ふ心に雪崩がおきさうになる 

p19

周囲の助言、そこには悪意はないと思われるが、当事者でないとわからない事情や複雑な思いがあるのだろう。
下句の「心に雪崩がおきさうになる」にその精神的な負担の大きさが表現されている。
しかし本人が反論したり、感情をあらわにすることはないのだ。

介護する人の気持ちがわかるから息子の訴へひややかに聞く 

p115

息子が施設での介護者に対する不満を告げているのだろう。しかし日々介護の大変さを知り尽くしている作者には、介護者の気持ちが痛いほどわかるのだ。
複雑な感情が渦巻く中で、作者の視点の冷静さもうかがえる。

子の息が止まる気配に目がさめる獣のやうなわたしの眠り 

p128

眠りながらにして、息子の呼吸が止まる気配に目が覚めるという作者。
「獣のやうな」という比喩に、母親としての本能的な愛情と警戒心が表されている。
眠っているときでさえ、そんな研ぎ澄まされたような感覚を維持しなければならない、緊張の連続の日々であったことがわかる。

子のエンピツを削りつづけた長き日々エンピツ削ればまた子を思ふ 

p170

息子が亡くなられからの歌。数え切れないほど削った鉛筆。
鉛筆は削ってもすぐに減り、幾度も幾度も削り直さなければならず、まだ徐々に短くなっていく。
そういった鉛筆と作者と息子との日々がオーバーラップする。

自由なる二十四時間に慣れなくて白熊みたいに行つたり来たりす

p171

息子との二人暮らしであった作者にとっては、一日、二十四時間自由であると言うことがほとんどなかったのだろう。その落ち着かない心境と行動が詠まれている。
「白熊みたいに」に作者の個性が表れている。


れんげ畑をころがり遊んだ春が来るれんげはどこか肥(こえ)のにほひす

p185

「肥のにほひ」とは故郷の匂いのことだろう。
れんげが咲く春が来るたび故郷と幼少期の場面が思い出される。
故郷を遠く離れた土地に住みながらも、心のどこかにはいつも故郷があるにちがいない。


お読みいただきありがとうございました。



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