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『塔』2024年3月号より⑤

『塔』2024年3月号から、気になった歌をあげて感想を書きました。
(敬称略)

晩秋の素水(さみづ)奔れる溝の辺にすみれ咲くなりその色淡く
/竹下文子

p67

山道や山村の流れる細い用水路、その溝の端にスミレがささやかに咲いている、そんな美しい光景を思い描いた。
「素水奔れる」には透き通った水が流れてゆくその速さや、音も表現されているようだ。
晩秋の澄み渡る空気も感じられる。


私はロボットではありません椰子の木選べば承認される
/佐原亜子

p72

唐突な上句に驚かされるが、読み進めるとwebでよく見かける不正アクセスを防ぐためのものだとわかる。
現れる画像には様々なパターンがあるが、その中から椰子の木の画像を持ってきたところがよい。
そもそも「私はロボットではありません」という言い方が滑稽な感じがする。

少女らにまじりボールを蹴つてゐる眼鏡の少年にも冬夕焼(ゆや)け
/篠野京

p73

不思議な味わいのある一首で、「冬夕焼け」という言い方に余韻が残る。
なぜかこの少年に自分を重ね合わせるように私は読んでしまう。
あるいは作者もそう感じたのかもしれない。


翌朝は寄りて電卓入れ始むこの世に生きる華やぎのあり
/深堀英子

p84

前の歌から葬儀の翌日だとわかる。
香典の金額の確認や葬儀に掛かる費用を計算しているのだろう。
皆悲しみに沈む中で、金銭を数えるという行為は不謹慎なようでもある。
しかし、それこそがこの世に生きていることの証なのだろう。
「華やぎ」が効いていて、実際には口にしないようなことを短歌に詠んでいるところが良い。


スーパーの鮮魚売り場の厨房の時計の五時をガラス越しに見る
/西村鴻一

p87

普段意識していないが、言われてみるとよく見かける印象的な景色が詠まれている。「時計の五時」という言い方が巧い。


楠の木をくぐらむとして夜半降りし雨くびすぢの一点を突く
/中野功一 

p96

首筋がゾクゾクっとするような不気味な体感や、雨上がり夜の楠の下をくぐりゆくときのひんやりとした空気が見事に表現されている。
「時間の経過も詠み込まれており、韻律も魅力的な巧みな一首。


落葉降る穏やかな午後集まりし人のひとりを探偵は指す
/伊丹慶子 

p117

一連に推理小説の歌があり、この歌も小説の中の話だと思われるが、結句が意外でドキッとした。
上句がやや甘い表現で描かれているのは小説の中の場面であることを示唆しているのだろう。連作のなかで現実の歌と並べられたことで、より印象的になっている。

耳栓が要るほどに沸くクラス会補聴器用意してきたけれど
/佐藤隆 

p153

高齢になってからの同窓会の場面。耳が遠くなりつつある作者は不安を抱えつつ補聴器を持参して参加したのだが、いざ行ってみると出席者が皆大きな声で話すため、補聴器は必要なかったのだ。参加者が皆耳が遠くなっているので、自然と自分の発する声も大きくなっているのだろう。
ユーモラスな上句によって、クラス会が大盛り上がりだったことが伝わってくる。
耳が遠くなっているという現実が描かれながら、どこかほのぼのとする一首。


今回は以上です。
お読みいただきありがとうございました。


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