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『高安国世全歌集』(沖積舎)

2024年は「塔」を創刊した高安国世の没後四十年である。
『高安国世全歌集』(沖積舎)は以前に購入して少しずつ読んでいるが、かなりのボリュームなので読み尽くせてはいない。今後丁寧に読んでいきたいと思っているが、今回は特に好きな歌十首を挙げてみた。



ケーブルカー青葉がなかを下(お)りおりて楽(がく)の終らむ如きかなしみ

『真実』

山での行楽を終え、帰りのケーブルカーに乗り下って行く場面だが、「楽(がく)の終らむ如きかなしみ」が言い得ている。楽しかった一日も終わりに近づいている。そのさみしさを斜面を下ってゆく感覚が追い打ちをかけている。速度を持って過ぎ行く鮮やかな青葉の景色が想像され、車両がレールを走りゆくときの響きは、ケーブルカーならではの全身に伝わる振動を伴っているだろう。二句目「青葉が」の「が」の音が、「楽」の「が」の音とともにその響きを伝えている。生命力あふれる青葉の中を五感で受け止めながら進みゆくさまは、まさに「楽」と喩えるのにふさわしい。行楽の場面にとどまらず、高揚した青春や恋が終りに近づきゆくときの比喩であるような趣もある。


雪にこもる一日の果てのしづまりにラジオは遠き拍手を伝ふ

『年輪』

雪のため一日を家居した日の静かな夜更けに、ラジオから拍手が聞こえてきた。それだけの歌だ。しかしラジオから聞こえてきたのは拍手だけではないはずだ。都会のスタジオかもしれないし、どこかからの中継であるかはわからないが、おそらくは大勢の人が集まったにぎやかな場面が想像される。そこで誰かが褒め称えられているのだろう。その騒がしい音声のなかから特に拍手が作者に意識されたのだろう。一方で作者は家にこもってそのラジオの拍手を聞いている。この対比、そして「遠き」が作者の寂しさや孤独を表しているように思われる。


ためらいの心に似たり冬一日風に押さるる半開きの扉

『虚像の鳩』

完全に閉まることのない半開きの扉。場面は冬であるから、屋内から見ているのではなく、戸外からその様子を見ている場面だろう。「ためらいの心」が言い得て妙で、冬の風に押され扉が開閉するさまを、自身の複雑な心情に重ね合わせているのだろう。


ここばかり不思議に人の絶えながら風吹き抜ける0番乗場

『虚像の鳩』

駅のホームの「0番線」はいくつかの理由で設けられたようで、古くから存在するらしい。しかし通常は物に順番をつける際には0は使われない。「0番目」とも言わないし、「0階」も存在しないから「0番線」には意外な印象を受ける。「0」は存在がないことを表すことが多いからだ。さらに(ゼロ)は(レイ)とも発音するゆえ、(霊)もイメージされる。そのような0番乗場に人が少ないことを不思議に感じたのだろう。どこか不穏な空気も漂う一首だ。


速度もちて地下に入り行く一瞬をオールの光る遠きレガッタ

『虚像の鳩』

「レガッタ」はボート競技のことで、地下へ入り行く電車の車両から、一瞬その様子が視界に入ったのだろう。「オールの光る遠きレガッタ」というのは、一見矛盾した表現だ。オールはそれほど大きなものではなく、それが光っていることを認識できる距離でありながら「遠き」と言っているからだ。そう考えると、「遠き」というのは実際の物理的な距離というよりも、むしろ心理的な距離を指しているようにも思える。若さや青春の象徴とも言えるレガッタから作者は遠ざかりゆき、さらには暗き地下へと運ばれてゆく。そのもどかしさと同時に、輝くものへの憧れがこの一首から感じられる。


ゆたかなる水のおもてに導きて舟着きの細き板のひとすじ

『朝から朝』

まず豊かな水、海や湖の広々とした景色が描かれ、そこから「舟着き」、さらに「細き板のひとすじ」と徐々に具体的に描写されている。初読では広い視野からひとすじの板に向かって焦点が絞り込まれてゆくように感じるが、「導きて」があることで、読み返すと逆に舟着き場から細き板、さらにそこからゆたかなる水へとつながる、前回とは逆回転の映像が脳内に再生される。「ゆたかなる水のおもて」には未知なる広大な世界の比喩であるような印象も受ける。「ゆたかなる水」は作者が度々訪れた琵琶湖だろうか。その湖、あるいは海への畏敬の念もうかがえる。


圧縮されし時間がゆるくもどりゆくインターチェンジの灯の中くだる

『新樹』


高速道路からインターチェンジを経て一般道へ降りてゆく車。高速道路ではまさしく高速で走っているために、運転手には緊張感が強いられる。「圧縮されし時間がゆるくもどりゆく」が特によく、過ぎゆく景色も緩やかになるとともに運転手も身体共にリラックスしてゆく感覚が伝わる。一首を通じてその緩急が見事に表現されている。


たえまなきまばたきのごと鉄橋は過ぎつつありて遠き夕映え

『一瞬の夏』

乗っている電車が鉄橋を渡りゆく場面だろう。高速で次々と過ぎ行く橋梁の影が景色と光を遮る。そのさまを「たえまなきまばたき」と喩えた。前掲のケーブルカーやレガッタの歌にも通じるが、かけがえのない時間の終焉の予感が歌われているような印象も受ける。


春寒き風に吹かるるヨットらの 綱の長さを行き戻りする

『湖に架かる橋』

綱につながれて岸に停泊しているヨットが風と波によって岸から離れては近づく光景が描かれている。「行き戻りする」により、静止画ではなく動画として映像化される。「春寒き」という本格的な春が目前に迫った、期待と切なさが入り混じる微妙な季節感もよい。


影生まぬ地下照明にはればれと踊るミキサーのオレンジジュース

『光の春』

生の野菜や果物をミキサーで調理して店頭販売するジューススタンド。デパ地下や地下街によく見られる。「影生まぬ」がその照明の過剰ともいえる明るさを表現している。そしてこの一首では何といっても「踊る」が効いている。しかも「はればれと踊る」だ。擬人法ではあるが、ミキサーのなかで湧き上がるようにかき混ぜられるさまは、まさに「踊る」がふさわしい。現在では珍しいものではないが、この歌が詠まれた昭和50年代後半では、今よりも人々の心を華やかにするものとして存在していたのだろう。

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