Pさんの目がテン! Vol.12 ヴァージニア・ウルフ「ドロシー・オズボーンの『書簡集』」について 2(Pさん)

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 ウルフも言っていることから、この辺の、イギリス人の季節にかんしてのとらえ方というのは、無自覚というよりも、自認しているところがあるのかもしれない。
 このエッセイ集も僕は後半まで読み進めてやめており、別の個所で日本の英語教育と英文学教育のレベルの低さというか混迷をなげいているようなところがあった。曰く、
 ある大天才がいて、その天才の文章を理解するのに一生を要する、それで研究と称して周りの文章から読んでいくということをする人がいるけれどもどこかおかしい。一目見てその天才に気付き感動して惹かれるということの起きない天才などありえないし、天才の定義に反している。ラテン語の
 ……
 という文を訳してみてその文言に感動しない人間がいるだろうか。それなくして翻訳が成り立つであろうか。
 以上は大意で、しかも後半は僕の感情も入ってしまった。正確なところは同書「英国の文学というもの」を参照されたい。
 さらに、自分の身にてらし合わせて歪曲は進む。何を「灯台へ」を読まずにエッセイばかり読んでいる。ウルフはエッセイも本領の一つか。まあいい。なぜ『監獄の誕生』『狂気の歴史』を自慢げに積み上げておいて『精神疾患とパーソナリティ』を読んでいる。
 耳の痛いことを脳内吉田健一は責め立ててくる。
 僕がなぜ吉田健一を読みあさっているのかといえば、佐々木中がどこかで引用していた「文弱の輩には文学は書けない」という発言を見つけたいからなのであるが、いまだに見つからない。こんな風にして、吉田健一の文芸批評は、元も子もないことを言ったり、即物的なことを言ったりするので、面白い。
 いつか本腰を入れて読みたいと思っている『時間』、あれも慎重に抽象論にならないような行き方をしているように見える。
 もともとの体質なのかもしれない。

 ウルフの方の、「ドロシー・オズボーンの『書簡集』」の続きに、またしても面白いことが書いてあった。

 しかし、初期の頃の手紙を書く技は、以後多くの魅力的な書簡集を生み出してきた技とは異なるものだった。男も女も、形式ばってサー、マダムと呼ばれたし、言葉はまだあまりにも華美で柔軟性に欠けていたために、書簡箋一枚の半分に、手早く、自由自在にひとひねりして書きつけることはできなかった。手紙を書く技は、エッセイを書く技の偽装であることが多い。(前掲書、92ページ)

 なんだか読んでいる本に先読みされた気分だ。書簡を書くということが、対自的に、意識されはじめた頃に書かれたのが、このオズボーンの書簡だといっているのである。それ以来、書簡は、書き方の技法の一つとして確立され、誰かからの視線を意識しながら書かれることになり、その果てが、小島信夫のいくつかの書簡体小説で、作中人物が、あたかも書き送る作中人物ではなく、作者と、読者までをも見すえながら書いているのではないかと思わせるような手紙を、地の文と地続きに書かれるのである。
 さらにその延長に、先日ラジオで読書会で扱った、いとうせいこうの「波の上の甲虫」があるのかもしれない。
 図らずも、話が繋がった!

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