Pさんの目がテン! Vol.20 『トリストラム・シャンディー』に舵を切る(Pさん)

 何日か前の更新で、「次の本が決定した」と書いて、それに触れずに今日まで来たけれども、その当の本がぜんぜん見当たらないので続けようにも続けられなかったという事情がある。けっこう読み込んだ本で、つい手元にあると思い込んでいたけれども、例の、図書館で借りて長いこと読んでいたけれども読み止しでそのままになっているというパターンだったかもしれない。あるいは買ったけれども実家の本の整理をしたときに処分してしまったのかもしれない。いや、あの本は持っていたとしたら処分するはずはない。ともかく、題名と、誰が書いたのかは覚えているんだから、また入手するということは簡単なことだ。そしたら、そのうちまた、浮き上がってくるように取り上げるということもあるかもしれない。
 その流れとは別で、いくつかの本のつながりから、今度は読みかけていた、ロレンス・スターンという小説家の『トリストラム・シャンディ』という小説に取り掛かろうと思った。
 文庫にして上中下巻に分かれた、かなり長めの小説だというのもあるが、本質的に、内容が長ったらしいのである。それが面白いといえば面白いんだけれども、継続した興味というのがどうしても続かずに、前回は100ページくらい進んだところで断念してしまった。
 この小説は、小説において余計なものとして扱われている冗長性を、むしろ任じてあえて冗長にしているといったたぐいの小説である。

 さて、いよいよこの作品であるが、前にもいった通り、これが英文学の中でも、いや、世界文学全体に範囲をひろげてみても、屈指の型やぶりの作であることは天下に名高い。(ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』訳者解説、11ページ)

 話の途中で急に真っ黒なページ、マーブル模様のページが挟まれるといった唐突な実験みたいなものもある。話が全然進まなくて何度も最初に戻るというところもある。何かをすっきりと述べるということに真っ向から対抗するという意識がある小説らしい。
 これを、前回読んだ時は、既存の小説への否定的な態度としてとらえていたけれども、今は微妙に違う。その事実より、この小説が十八世紀、小説という形式自体が始まったすぐあとくらいに書かれたということの方が、気になっている。それから、ジョン・ロックの哲学、連想と観念連合ということが念頭に置かれて書かれているということ。後年、十九世紀の前後でもてはやされた手法としての連想とは、感触的に、また機能的に異なっているという予想をしている。
 時間がないので、とりあえず訳者まえがきだけさらって、予想を述べるしかできなかった。

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