新型肺炎(Pさん)

 かなり長い連休が終わってから、何日かが経った。
 連休中などにも触れたが、これだけの連休があって、創作的な部分で自分がなにもなさなかったことに対して、かなり焦りというかショックを受けた。やったことは、寄せ木細工の箸の、切った爪の先ほどの部品が取れてしまったので、百円ショップで瞬間接着剤を買って、直したということくらいである。今まで、自分には時間がなかったから思うようにできなかったのだという言い訳が、どこかにあった。しかし、時間があったところで、自分にはわずかなことしかできないのである。だから、今後、時間があるから何かいつもと違ったことが出来るなんていう幻想は捨てるとともに、平時の時間の使い方の中を縫って、何かしらやりおおせなければならないのだと、シフトチェンジすることにした。
 また、何かしら、決めたことを、本当に守っていきながら日々を過ごすことにした。

 コロナウィルスという言葉も、とっくのとうに聞き飽きたという人がいるだろう。この言葉について、考えることがあった。というのも、場所によって、コロナウィルス、正確には新型コロナウィルスという呼称を使う部分がある。ツイッターや、海外メディアから流入してきたような領域では、「COVID-19」という、これが世界的な正式名称なのか、そう呼ぶサイトや記事もある。しかし、僕が納得いかないのは、「新型肺炎」という呼称である。
 ウィルスがある。これは厳然としてあって、何というか、それが実体であり、揺るがない。対して、ウィルスに対して、人間が振舞う対応としての症状というのがある。人間にとっては、これが問題なのであるが、人間にとって全く問題とならない、たとえば眺めているだけならただの塊にしか見えないそのウィルス、あるいは飛沫核があり、その単体であれば一切なんの害にもならないウィルスに対して、多種多様な、社会全体を揺るがす規模で起こる、症候群というものがある。
 この二者は別物であり、ウィルスに罹って発熱する、咳が出る、鼻水が出る、など、ウィルスと症状というのは、物体として、あるいは現象として別である、ということまでは、普通の人であればイメージできるものと、思っていた。
 しかし、「新型肺炎」という単語、これは、「新型コロナウィルスが引き起こした症状としての肺炎」ということの、略称であるのか、わからないけれども、今全国に蔓延している新型コロナウィルスという、同型のRNAを持った塊が引き起こす、「肺炎」が「新型」であるという、短縮された語形はなっているわけだが、肺炎に新型があるわけがない。皮膚炎が、新しい形態になるわけもない。皮膚炎は、局所的に起こるか、全身に起こるか、発疹か発赤かなにかわからないけど何かが起こったことが皮膚炎であり、皮膚炎に型があるのではなく、その病原に型があるのである。
 だから、鼻水で人が死ねばこの病気は「新型鼻水」となるはずであり、咳で人が死ねば「新型咳」と、この命名法で行けばなってしまうのである。現実に近づければ、呼吸困難で人が死ぬのだから、「新型呼吸困難」である。こうすると、変な言葉であることがあぶり出てくる気がする。ちなみに、ふざけているようにも見えるが、人間、どこかほんのワンポイントがバランスを崩せば死んでしまうもので、例えば一箇所なんらかの理由で血管が詰まってしまえば死ぬのである。あながち、肺炎で死ぬけど鼻水では死ぬわけがない、なんていうこともはっきりと言えないと、僕は思う。
 肺炎が、人を死に至らしめるということはわかる。だから、今起こっていることが、ウィルスの仕業であるかどうか、全く盲目な人間であれば、それが「新しい肺炎の蔓延で人が死んでいる!」となるのかもしれない。そう、ここまで辿ってきて、この単語の気持ち悪さがわかったのだが、なんだか、雨ごいをする人間とか、特に、伝染病にかかっている人を、何も知らずに血統が悪いとか、地域が悪いとか、土が悪いとか、そういう風に解釈する人と同じ気配がするので、なんとなく嫌な感じがするのだ。実際、四字熟語に収めたいという要求だけある、新聞的なニュース媒体がそういう単語を使う傾向にある気がする。
 これだけ流行した病気に対して、いろいろな単語(同様の理由で、人文系の人が、「コロナ禍」と、この蔓延の現状を表現することにも、僕は別の違和感を覚える)が生まれてくるのは仕方のないことだとは思うが、その中で特に違和感を覚えるのが「新型肺炎」という単語である、ということが言いたかった。ただ、呼称の問題なんて、ささいなことだから、暇つぶしのようなものである。

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