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『物語 スコットランドの歴史』

国際日本学部 日本文化学科 教授 中村隆文
(英米思想、リベラリズム、法哲学、スコットランド啓蒙思想)

 今月、新刊『物語 スコットランドの歴史』(中公新書)を上梓することになった。その記念ということで、ここで本の内容を踏まえながら、スコットランド史の学術的意義について簡単に論じてみたいと思う。


1.イングランド中心的なこれまでのイギリス史

 日本の中等教育(中学校、高等学校)の社会科において、「イギリス」、すなわち、「UK」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland )について学ぶ場合、その内容は16世紀から19世紀にかけてのイングランド中心の情報がほとんどであろう。16世紀のヘンリー8世の脱カトリック(およびイングランド国教会の設立)、その娘エリザベス(女王)時代の黄金期、17世紀半ばの清教徒革命と王政復古、17世紀終盤の名誉革命、18世紀後半から19世紀にかけての産業革命などはおよそ誰もが中等教育時代に耳にしているように思われる。それは、ヨーロッパの島国として独自の国家体制を築き、議会制民主主義の先駆者でもあり、蒸気機関を駆使した先進国として世界をリードした「華やかな大英帝国」を彷彿とさせるものである(また、イギリスといえば学術機関としてオックスフォード大学やケンブリッジ大学なども有名である)。


2.同君連合のはじまりはスコットランド国王から?

 しかし、そうしたイギリスの近代化・先進化において、イギリスの地方である「スコットランドScotland」が寄与していることを知っている人はどれほどいるのだろうか。

そもそも、17世紀初頭にスコットランド国王のジェイムズ6世がイングランド国王ジェイムズ1世を兼任したことや、その王朝名「スチュアート」がスコットランド名門貴族のものであることすらあまり一般には知られていないように思われる。その背景には、テューダー朝最後の王である前述のエリザベス一世には継嗣がおらず、そこで、テューダー朝ヘンリー7世の娘マーガレット(ヘンリー8世の姉)とスコットランド国王ジェイムズ4世が結婚したことがある。テューダー朝の直系後継者たちがいなくなり、そこで、ジェイムズ4世のひ孫であるジェイムズ6世がスコットランド王でありながら、イングランド王家の血筋ということで王位継承者として「イングランド国王ジェイムズ1世」の座に就いたわけである。このジェイムズ1世の即位により、ブリテン島におけるイングランドおよびスコットランドの統合国家、すなわち「グレートブリテンGreat Britain」の骨子ができあがった(このとき、現在のイギリス国旗ユニオンフラッグ(ユニオンジャック)の原形が作られたといわれている)。


3.市民革命を手伝ったスコットランド

清教徒革命はそのジェイムズ1世の息子であり後継者であるチャールズ1世のときに起きたが、それは単なるイングランド国内の内戦というものではなかった。スコットランド王でもあった彼は、イングランド国教会の主教制(監督制)をスコットランド長老派教会(トップダウン的な主教制とは反対の、カルヴァン主義に基づくボトムアップ的な教会制)へ強要した。これに対してスコットランド側が国民盟約(National Covenant)を結成して対抗したのが、1639-40年に起こった主教戦争であるが、チャールズ2世側はそれに敗北し、多額の戦費を無駄にしただけでなく、賠償金をスコットランド側へ支払うこととなった。それがチャールズ2世と王党派に対する批判を過熱させ、議会派の勢いを強めることとなった。

 そうした情勢のなか、議会派を抑圧しようとしたチャールズ2世をはじめとする王党派への不満も高まった結果イングランド内戦に突入したのだが、イングランド議会派はスコットランド盟約派と協力して戦い、チャールズ2世を捕らえたりもした。このように、この時代のイングランド政治史においてスコットランドが果たした役割は決して軽いものではない。


4.「近代」の立役者スコットランド

 その両国が、同君連合のみならず、同一議会をもつ一つの国、すなわちグレートブリテン王国となったのが市民革命期のあとの1707年であるが、それ以降もスコットランドのアイデンティティは消えることなかった。『国富論』の著者で経済学の父と呼ばれる18世紀生まれのアダム・スミスはスコットランド生まれであり、スコットランドのグラスゴー大学で教鞭を奮った人物である(彼は当時のイングランドのオックスフォード大学の教員たちの退廃・怠慢に辟易し、グラスゴー大学にて大学生のニーズに応えるような教育を行っていた)。蒸気機関の実用化に成功し、産業革命の立役者となったジェイムズ・ワットは、電力の単位として知られる「ワット」の元でもある人物であるが、彼がスコットランドで生まれ、スコットランドで教育を受けたこと(グラスゴー大学で学んだこと)はあまり知られてはいない。ついでにいえば、電話の実用化に寄与したグラハム・ベルもスコットランド人であるし、医師であり作家でもあるかの有名なコナン・ドイルもスコットランド人である。

 こうしたことを踏まえると、イギリスの産業革命や経済発展、文化的先進性というものをスコットランドが支えていたということは明らかといえよう。


5.スコットランド人のナショナル・アイデンティティ

 1707年以降、スコットランド人は「British」となったが、しかし、それでも「Scottish」と呼ばれることを好む人は多いし、実際、国際的にも両者は区別されている。FIFA発足以前の1872年に行われた世界で最初のフットボールの国際試合はスコットランドvsイングランドであるが、現在に至るまで両者は政治体制としてはどちらもUKに所属しながらも、別チームとして国際大会に参加している(ラグビーなども)。こうしたところにも、政治体制としてのスコットランド国家は存在しなくとも、国民国家としてのスコットランドは人々の意識のなかでまだ生き続けている、といってもよいだろう。そして、今後のヨーロッパの情勢次第によっては、再度、政治体制をそなえた「スコットランド」が甦ることも――すなわち、UKから独立することも――ありうるかもしれない。


『物語 スコットランドの歴史  イギリスのなかにある「誇り高き国」』

*そのあたりの詳しい事情について関心ある方は、是非本書を手に取ってほしい。書誌情報はこちらから↓
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2022/05/102696.html

中村 隆文
国際日本学部 教授・英米思想 スコットランド啓蒙思想

国際日本学部 | 神大の先生 | 神奈川大学 (kanagawa-u.ac.jp)