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「異なること」を楽しめる?

国際日本学部 日本文化学科 教授 中村隆文
(現代英米哲学思想、リベラリズム、法哲学、スコットランド啓蒙思想)

最近、本学(国際日本学部)での「比較思想論」の講義をもとにした『世界がわかる比較思想史入門』(ちくま新書、2021)を上梓した。これは古今東西の宗教・哲学思想を取り扱ったもので、興味がある人は是非手に取ってもらいたいが、この機会に、そもそもこうした比較思想論が意義をもつ背景について私見を述べておきたい。

「2つの分かり合い」とその功罪

我々は、近代特有の個人主義や経済主義のもとで分断され、それゆえに孤独・孤立に苛まれたり、異なる利権がらみで醜く相争ったりするような状態に陥っている。そのような状況だからこそ、「社会的に連帯しよう」とか「絆を取り戻そう」といった謳い文句がそこら中に溢れているわけであるが、ここでは、そのキーポイントとなる「分かり合い」について考えてみたい。

 「分かり合い」とは主に、①知的に分かり合う、と、②感情を分かち合う、の二種類がある。前者については、互いがどのような状態にあり、どのようなものを望んでいるか、といった「現状把握」をもとに、「何を信じるべきか」「何をなすべきか」を知識として共有することを意味する。いわば、理性的な「共有知 common knowledge」である。

この共有知においては、「言葉」と「論理」が不可欠とされている。というのも、我々人類が連帯のためのコミュニケーションをとるとするならば、そこでは、言語が駆使されつつ、その言葉が何を意味しているのかをみんなが理解していなければならないからである。そのためには当然、ロジック(論理)が共有されていなければならないわけで、共有知とはこの意味で「安定的」で「客観的」なものと想定されている。そしてその最たるものが「人類にとっての真理」といえよう。

しかし、そうした分かり合い方が「できて当たり前」となってしまうと、その真理を共有していない人々を異分子として排除しがちとなる。真理の方に立つ側は、異なる人たちに対し、「邪教徒」「不道徳」「不合理」、あるいは「非科学的」というレッテルを貼り、心を入れ替えて自分たちの「分かり合い」に加わるように迫るか、共同体からでていくように、あるいは残るとしても、あまり影響力を及ぼすことなくひっそりと身を潜めて暮らすように暗にうながす。というのも、「真理」から外れた考え方が広まれば、分かり合いに亀裂をいれ、調和を乱し、秩序だった社会を混沌な方向へと向かわせると考えられるからである。ゆえに、客観的・普遍的な真理を愛しすぎる人は、自身と異なる価値観・世界観で生きる人を排除しがちとなる。

しかし、今我々が信奉する真理ですら、そもそもが単に「今そうであると信じ込まれている常識」にすぎないのではないだろうか?そこに無批判なまま、自分たちの共有知(常識)を「真理」と位置づけ、そこに客観性・普遍性を投影し、それを受け入れないものを異者として排除したり、そうした異者に対してそれに合わせるよう強要したりすることは思い上がりともいえるものではないだろうか。そして、そうした思い上がりこそが、かつての異端審問や魔女裁判、ホロコーストや東西冷戦、それに現在の社会的分断を起こしてきたのではないだろうか。

だからこそ、ここで第二の「分かり合い」である「共感」に頼るべき、という主張がとても魅力的にみえる。たしかに、怜悧な線引きや計算を超えた感情的な分かり合いとしての「共感」は大事であり、他人の痛みを我がことのように感じとる感受性はないよりはあった方がよい。

しかし、共感を当たり前のように求めすぎてしまうと、「私たちに共感できないなんて、あなた方は人間失格だ!」とか、「共感してほしいなら、まずこういうところを直せよ。気持ち悪い!」というような異者同士の罵りあいを引き起こすことにもなる。共感を大事にするというスタンスであっても、「分かり合い」「意見の一致」を当然として強要するような姿勢は、さきの真理中心主義同様、同じであることを強要するような同一化権力をつくりだし、異なるものを拒絶するような風潮を生み出しかねない。

たしかに知識を共有したり共感しあうことは重要である。そうすることによって、みんながハッピーになることもあるだろう。しかし、大事なことはそれだけではないだろう。分かり合えなかったり、とうてい共感できないような価値観をもつ人々とも、住み分けるところはうまく住み分け、交流できるところはうまく交流するといった柔軟な姿勢も大事ではないだろうか?
 

無邪気さと鷹揚さと21世紀型の「分かり合い」

私が思うに、異文化交流において重要なことは、異なる者と向き合い、違うことを楽しもうとするタフさである。といっても、それは「力」でもなければ「ガマン」でもない。それは、自分と異なる考え方や価値観に対し、それを受容するかどうかはともかくとして「お、それって面白いね」とか、「いいじゃん、俺が俺流でやるように、君はそれでやりなよ」と言えるような無邪気さと鷹揚さである。それらをなくし、他者を自身の側に取り込もうとするような同一化権力に取りつかれたとき、その人は、自身では「理知的」「真理の側」のつもりでいる狂信者となってしまう。

もちろん、知識や学びも大事ではあり、それを通じて、それぞれのなにがどう違い、何をどこまで受け入れることができ、どこからが無理であるのかを理解することができる。異なる文化・異なる人々に関する学びのなか、そのなかで、自身の気持ち・理由・その限界をきちんとみつめ、違いを楽しむことができるとすれば、いたずらに「あの文化は野蛮だ」と攻撃的になったり、あるいは、「自分たちの文化はたいしたことがない……」と自己卑下的になることもなくなるだろう。

しかし、この「異なること」を楽しむということを、無関心的な放任主義や、突き放した自己責任論と同一視すべきではない。

異なる文化を学んだり、異なる文化圏の人々との交流を楽しもうと公言している人が、現代において困窮し衰退しつつある文化圏を目の当たりにしたとき、「グローバル社会で生き残れないような文化なら淘汰されてしまえばいいさ」と言い放っているとすれば、どうであろうか。その人は本気で異文化交流を楽しもうとしているとは到底いえないであろう。というのも、そういう人は、建前では異なる人々と交流したいといいつつ、グローバリズムや弱肉強食主義を真理として振りかざし、異なる価値観や文化が淘汰されつつあるのを正当化しているのだから。

もちろん、それぞれの自助努力は必要であるし、それぬきで、「助けるのが当たり前だ」といったむやみやたらな救済論を振りかざすつもりはない。しかし、個々の力ではどうにもならないことがあれば、力を貸せそうなところはそれを助けるべく―――しかし、そのアイデンティティと誇りを保てるように――「みんな」で創意工夫してゆくことも大事であろう。私が思うに、そうした工夫に「みんな」で取り組もうとする姿勢もまた異文化交流を支える無邪気さと鷹揚さといえる。そして、そんな「みんな」になろうとすることこそ、同一化の幻想にとらわれることなく個々を尊重し、しかし、それぞれを独立した主体としてその歴史やアイデンティティを尊重するような、21世紀型の「分かり合い」といえるのではないだろうか。

カラフルなこの世界で

分断を乗り越え、異なる他者と共存してゆくのに、崇高な理想をしかめっ面で語らなければならない必然性はない。違うことに驚き、カラフルなこの世界の美しさを楽しむ、子どものような好奇心こそが必要であると私は思う。いってみれば、「それなに?へーっ、面白そうだね!」という屈託のなさこそが必要ということである。そして、そうした屈託のなさは、受験勉強から解放され、いろんなものと触れることができる学びのなかで身につけることができると私は思うのである(大学でも、そしてそれ以外でも)。


中村 隆文 著
『世界がわかる比較思想史入門』(筑摩書房)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480073570/
webちくま(講義動画あり)
思想を学ぶ意味を考える|ちくま新書|中村 隆文|
http://www.webchikuma.jp/articles/-/2256