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「学ぶ」は、楽しく力強い| 松浦智子

松浦 智子
外国語学部准教授・中国文学

数年前の夏、中国の西北地域に石碑の調査に向かった時のことである。

日中、車にガタゴトと長いこと揺られた末に、ようやくその日の宿を見つけて部屋に入り、一息いれようとしたところだった。

「定例検査です!」
との声とともに、半開きだったドアから中年警察官が3人ほど入ってきた。

驚いていると、騒ぎを聞きつけ、調査に同行した先輩研究者も現地アテンドの学生と向かいの部屋からやってきた。

「なんか悪いことでもしたの?」と先輩はニヤニヤするが、かく言う自分も以前の調査で顔面を野犬に嚙まれているので、運の悪さでは負けてはいない。

そんな私たちのやり取りを尻目に、3人の中年警察官は私の荷物検査をどんどん進め、最後に身分証の提示を求めてきた。

仕方ないのでパスポートを渡すと、警官は急ににこやかになり、「あなた、中国の人じゃなかったのか。こんな田舎に何しに来たんだい?」と訊ねてくる。

国際交流は大事なので、こちらもにこやかに、
「宋代とか元代とか明代の石碑を探しに来ました」と、この上なく正直に答えると、
「そんなもの探してどうするの?」と、さも不思議そうに聞き返された。

思えば調査で石碑を探すたびに、同じような質問を受けているような気がする。数年前の冬に、中国の同じ地方の寺の片隅で、古い奇妙な石碑を見つけて小躍りしていた時にも、寺を開けてくれた管理人が、「そんなに嬉しいもんかね」とにこにこしながらも、やはり不思議そうに訊ねてきた。

遠くからやってきて、日常生活に必要ないように見えるものを手にして喜んでいる私の様子は、はた目には奇異にうつっていたのかもしれない。ただ、周りを見てみると、領域のまったく異なる研究者たちも、少なからず似たようなことをしているようなのである。

ラオスの山岳地帯で古い歌垣(うたがき:恋の掛け合い歌)の歌詞を記録した紙片を見せてもらっただとか、スペインの田舎の役場で破れかけの十四世紀の文書を見つけた、といった話を酒の席などでよく耳にするのだ。

そこにたどり着くにはかなりの労力がいったはずだが、話し手を見れば、みな漏れなく満面の笑みである。たった一枚の紙切れや古びた文献が、その研究を行う当事者の目には、未知の世界へつれて行ってくれる可能性を秘めた「鍵」としてうつっているからこその会心の笑みなのだろう。

だが、研究者の誰もがみな初めからこうしたものに楽しみを見いだしていたわけではないだろう。個人的なことを言えば、私が自分の専門に中国文学を選んだのも、『水滸伝』とか面白そう、ぐらいの理由であり、当初は中国文学の勉強の決まり事の多さに四苦八苦するばかりだった。

また、研究は楽しいことばかりではなく、論文に行きづまって呻吟(しんぎん)したり、思うように文献を読み解けず苦しんだりすることも多い。文献を過(あやま)たず検証するには、学生のころから叱られながらもたたき込まれた「読解の技術」を、今なおチマチマと磨き続けたりもしなければならない。これもなかなか苦しい。さらに最近では、大抵すぐには「目に見える成果」には結びつかない「非効率的」で「非実用的」な研究を進めていくことに何の意味があるのか、と問われることも多くなってきている。

だが、それらの一切合切を乗りこえ検証し続けてきた資料が、時にミッシングリンクをつないでくれることがある。そこから、どうしても解けなかったパズルのピースが次々とはまり、それまで見えなかった社会像や人間模様が急にあざやかに浮かびあがってくるのである。

その時の興奮や達成感、幸福感は、この上もない。そして何より、文字の向こうに眠る「何か」を掘り起こそうとする作業は、「社会にすぐ役立つ成果」にはつながらなくても、それ自体が苦しくもあるが面白い。文字から浮かぶ過去の人々の息づかいはリアルであり、人間に対する尽きない興味をかき立ててくれるのである。

たとえば、寺の片隅にあった上述の石碑には、ある一族が偽造した家系図が刻まれていることが検証でわかった。その一族は、本来はまったく関係ない有名な武将一族の来歴を利用して、自分たちの社会的地位を上げようとしたのだ。

面白いのは、偽物を作るさいに彼らが材料として利用したのが、当時はやっていた通俗英雄文芸だったということである。今の日本で言えば、「俺たちは宮本武蔵の子孫だ。ほら、小説とかマンガ、ドラマ、映画でも有名なあの剣豪の末裔」と自慢するようなものだろうか。

彼らの人を傷つけないややコミカルな作為には、善悪の価値観を越えたしたたかな生命力が息づく。事実、その一族はその後の幾度にもわたる戦火や社会変化にもめげず、今なお子孫を各地に増やしている。

現在、私たちは複雑で繊細な仕組みのもとで動く日本社会に生きている。その複雑さ・繊細さゆえに、息苦しさを感じることもあるだろう。
だが、人間は、時代や地域が変わっても、本質的な部分はあまり変わらない生き物だと私は思っている。それがゆえに、研究を通して目にする過去の人々のこうした力強い生き様は、自分のなかにも、したたかな生命力が確実に備わっていることを思い起こさせてくれるのである。

学びて時にこれを習う ― 学んでは、折々にその内容を復習する。

また説(よろこ)ばしからずや ― なんて嬉しいんだろう!

これは、孔子のことばを記す『論語』の最初の句であり、彼が生きたのは2500年前の乱世だった。

長い人生には、色々ある。
だからこそ「学問」は、昔も今も変わらず力強く、一癖ありながらも常に寄りそってくれる楽しい友人のような存在であり続けているのだろう。

大学は、そんな愉快な友人と出会うのにはうってつけの場である。気張らず、気長に、一生の友人を見つけて欲しい。

松浦 智子
外国語学部准教授・中国文学

『学問への誘い』は神奈川大学に入学された新入生に向けて、大学と学問の魅力を伝えるために毎年発行しています。

この連載では最新の『学問への誘い 2020』からご紹介していきます。