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卒業研究「Y君の話」|堀 久男

堀 久男
理学部教授・環境化学技術

高校生の諸君はまだ知らないと思いますが、大学の授業科目のうち、机に座って講義を受ける科目は、その理解度を期末試験やレポート提出で採点されて、百点満点中六十点以上が合格、つまりその科目の単位が取得でき、六十点未満だと不合格となります。成績は前期と後期の年二回発表される成績表に出ていて、成績のパラメータであるGPAがいくつになったとか、あるいは進級できるかとか、学生本人あるいは保護者の方が一喜一憂するわけです。

ところが理学部化学科にある卒業研究IあるいはIIという科目(卒業研究は最初の半年でI、残りの半年でIIを行い、一年間で完成します)には期末試験がありません(発表会はあります)。さらに成績が百点満点で何点とかいうつけ方ではなくて「合」と「否」しかないのです。講義の科目のようにどうして成績が数字で表現されないのでしょうか。

それは卒業研究が講義の科目とは次元が異なるためと思います。

講義の科目は教科書や参考書を使い、毎回の授業の内容を復習して、疑問点を先生に質問して理解し、次の授業の予習をしておけば大抵の人は単位を取得する(=六十点以上)ことができるはずです。期末試験も答えがある問題しか出ないはずです。そうでないと採点できないからで、回答できない問題を出したらクレームが来てしまいます。

これに対して卒業研究は基本的には結果がどうなるかわからない未知のことに挑戦します。つまりあらかじめ答えが用意されていないことに取り組みます。このため講義科目のように単純に評価できないため「合」と「否」しかないのです。

講義科目と卒業研究はこのように質が異なり、すべての講義科目は卒業研究を行うためにあると言う先生もいます。それだけ大事なわけです。

講義科目と卒業研究は、自動車の運転免許取得のために行く教習所の学科教習と技能教習の関係に似ていると思います。既に運転免許を取得済の諸君もいると思いますが、学科教習では交通法規を一生懸命覚えます。道路標識とか、制限速度とか、実際の道路ではあり見ないような道路標識も含めてまるごと覚えるわけです。しかし、どんなに学科教習の成績が良くても、それで車の運転技術がうまくなることにはならないことはわかると思います。

つまり道路交通法の知識は車の運転には当然必要ですが、それだけではだめで、車の運転能力を身に付けるためには実際に車を動かす技能講習が絶対に必要なわけです。

それと同じで大学の講義科目は言ってみれば絵に描いた餅の世界で、卒業してから化学という学問を真に使いこなす能力を身に付けるためには、実際に実験し、試行錯誤して結果を導くという卒業研究を経験することが絶対に必要なのです。

卒業研究はこのように講義科目とは性質が違うため、講義科目の成績がぱっとしなくても、ひょうたんから駒のような素晴らしい成果をあげる学生が時々出現します。逆に講義科目の成績が良くても、実験を怠けてまるでだめな学生もいます。机に座ってあらかじめ答えがわかっている問題しか解けないという、えさを待っている燕のヒナみたいな状態では社会に出たとき困ると思うのですが。

卒業研究は試行錯誤するので実験をそれなりにこなす必要があります。天才的な人でなければ成果は実験量に比例します。

数年前に当研究室で卒業研究に取り組んだY君の話をしましょう。
彼は不真面目というわけではなかったのですが、講義科目の成績はぱっとしませんでした。ぱっとしないどころか、卒業研究に着手する資格(講義科目で何単位以上取得済とかの条件)を得るのが他の人より遅れてしまいました。つまり留年生でした。

それでも彼は卒業研究に熱心に取り組みました。

水中からある希少金属を回収する反応手法を開発する研究を行いましたが、
一時間反応させても反応しません。二時間反応させてもだめでした。三時間とか、毎日いろいろ条件を変えて実験していました。思い切って十九時間反応させてみたところ、突如反応が急激に起こって水中の希少金属を沈殿として全て回収することに成功しました。

彼が見つけた反応手法はその後改良され、その手法は日本のみならず外国でも特許として権利化されました。経済産業省の補助の下、企業との大規模な共同研究も行われて実用化まで到達し、大学にも収入をもたらしています。

Y君が就職活動をした時期はまだ日本で特許出願した段階でしたが、採用面接でも無口な彼がその成果を十分にアピールしたようで(特許を出願したことについて評価されたそうです)、製造業で有名なメーカーに就職していきました。就活で人より卒業が一年遅れたことは不利にならなかったと言っていました(留年を勧めているわけではありません)。

彼の例でわかるように卒業研究は講義科目とは違いますのでそれまで成績が悪かった人 でも頑張れば人生を挽回できます。

人の性格や思考は大学生くらいの年齢でほとんど決まってしまうのではないでしょうか。実際私が出身大学の研究室の同窓会に行くと、卒業研究を真剣に行っていた者ほど社会で活躍して、成功しているようです。そういうことからも学生諸君にはなぜ卒業研究には「合」と「否」しかないのか考えて、将来のために頑張ってほしいと願っています。

堀 久男
理学部教授・環境化学技術

『学問への誘い』は神奈川大学に入学された新入生に向けて、大学と学問の魅力を伝えるために各学部の先生方に執筆して頂いています。

この文章は2020年度版『学問への誘い—大学で何を学ぶか―』の冊子にて掲載したものをNOTE版にて再掲載したものです。