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言の葉ノートを開く時~言葉の記憶|原 良枝

原 良枝
国際日本学部特任教授・比較文化・比較基層文化論

 あなたの好きな言葉は? 心が動いた言葉はありますか。
 例えば「意志あるところ道は開ける。」よく聞く言葉だとは思いますが、私にとっては特別で大切な言葉です。大学三年生の秋、将来の進路を決めかねて安易な方向へ進もうとしていた時に友人がかけてくれた言葉だからです。不思議なもので、この言葉を口にすると私はたちまち大学生へ逆戻りし気持ちまで若返ります。まるで、タイムマシンのような作用を引き起こすマジックワードです。

 私はこういった好きな言葉や気になる言葉、小説の一節などをノートに記すことを続けてきました。そのノートを「言の葉ノート」と名付け大切にしています。言葉とは、言(事)の端でもあるということから少し気取って命名したのです。丁寧に写しているものもあれば、殴り書きのように書かれたものもあります。悲しい時、辛い時、寂しい時にこのノートを開きます。そして自分に言い聞かせるように、そこに書かれた言葉を呟いたり、大きな声で読んできました。すると、不思議なことに気持ちが奮い立ってくるのです。

 皆さんにとって、これから始まる学生時代は何かにつけて悩みの多い時代です。気にかかることがたくさんあって、もがき苦しむ年頃です。しかし、誰かに苛立ちや恋の悩みを聞いてもらうことで、気持ちの整理もでき、心が晴れやかになることがあります。なぜ、人に話すことで気持ちが救われるのでしょう。「話す」という行為は「放す」であり、心の重荷を手放すことに繫がるからです。声に出すということは、思っている以上に意味のある行為なのです。

 ところで、人の「声」とは不思議なものです。呼気から声帯を震わせ、副鼻腔で共鳴し、舌や下顎の動きで音声として整えます。元気な時は声も生き生きしていますが、気分がすぐれなかったり、体調が悪い時は声も沈みます。声は、その場で消えてしまい形は残りませんが、身体そのものなのです。会話をしている時の相手からの圧や熱量を声という身体から直に感じてこそ気持ちが通じ合うのです。

 しかし、2020年の年明けから世界中で見られた「新型コロナウイルス」の感染拡大により、私たちの生活は大きく変わりました。人はディスタンスを保ちマスクなしでのお喋りは時代の作法から遠ざけられてしまいました。身体そのものである「声=肉声」でのやりとりが今までと同じようにできなくなったのです。このような中、手軽で自由に発信ができるSNSでのやり取りは増えていますが、その一方で信頼性の欠如した情報が氾濫し、ヘイトスピーチや誹謗中傷といった書き込みも多く見られ、SNSの在り方をめぐり課題を突き付けられています。

 つながることは大切です。しかし、つながりやなだれ込む情報に追い立てられ、知らずうちに疲れを募らせてしまうこともあります。そのような時は、情報から身を遠ざけ、読書をするというような一人の時間を過ごすことで、自分と向き合ってみるのが得策です。このような静かな時間を持てるのは学生時代の特権なのです。

 さて、私には「言の葉ノート」があると言いました。始まりは小学生の時、母にねだって買ってもらった当時流行っていたイチゴ柄のカバーがついた小さな手帳に、日記のように本の一節を書き写していました。そのノートはもう手元にはありませんが、同じようなノートを書き続けてきました。少し恥ずかしいのですが、その中から二つ挙げてみましょう。

かくて、人間、ひとりびとり、
 こころで感じて、顔見合せれば
にっこり笑うというほどの
 ことして、一生過ぎるんですねえ

 これは、中原中也の「春宵感懐」(『在りし日の歌』所収)という詩の第四連です。20歳の冬、重症肺炎を患い入院中の病院のベッドで期末レポートのために読んでいた時に出会った詩です。〈拈華微笑ねんげみしょう〉という仏教の言葉があります。お釈迦様が花を捻った瞬間に弟子の一人が悟りを開いたという言葉を連想させる詩です。互いの想いと想いが、にっこり笑うことで通じ合えた、まさしくコミュニケーションの極意と言えましょう。言葉を介さない究極のコミュニケーションを中也は表現したのです。

 もう一つ。私には『ジュリア』という大好きな映画があります。リリアン・ヘルマンという劇作家の自伝的小説が原作です。第二次世界大戦中、リリアンが親友のレジスタンス運動の資金をベルリンまで運ぶ出来事を軸に、〈ジュリア〉という、時代の中で信念を貫く強い女性との交流を描いた作品です。この映画でリリアン・ヘルマンが好きになった私は『眠れない時代』というリリアンの自伝を読み進むうちに、「あとの結果を心配しながら決心するのは私のやり方ではない」という言葉の前で心がさらわれました。行動的な凜々しさを感じる強い言葉だと思いませんか? 頁をめくるのが惜しいと思うほど大事に読んだ記憶が蘇ります。

 つまり、このノートは古今東西の作家が慰め勇気づけてくれる声に溢れている空間で、私の心の居場所なのです。これらの言葉に今までどれだけ救われたかのかわかりません。本は、いつもそこにいて頁をめくる人を待っています。あなたを受け入れ、あなたを裏切りません。作者がのたうちまわりながら、探し、刻んだ言葉の数々が心に降りてきて寄り添ってくれるのです。美しい文学作品や芸術との出会いで心を満たしてください。その時の言葉の記憶が自分を育て励ましてくれることでしょう。そして自分の存在と想いを確認し未来を語ってください。

 最後に、私の「言の葉ノート」から、皆さんへ言葉を贈ります。「健康であれ。そして真摯に学問に向きあいなさい。」大学院時代の恩師の言葉です。

原 良枝
国際日本学部特任教授・比較文化・比較基層文化論

『学問への誘い』は神奈川大学に入学された新入生に向けて、大学と学問の魅力を伝えるために各学部の先生方に執筆して頂いています。

この文章は2021年度版『学問への誘い—大学で何を学ぶか―』の冊子にて掲載したものをNOTE版にて再掲載したものです。