マガジンのカバー画像

地域言語のススメ

46
神奈川大学の共通教養科目で履修できる地域言語は、韓国語、スペイン語、中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語の6言語です。皆さんを待っているのは広くて深い「ことばの世界」です。初級…
運営しているクリエイター

#外国語学習

神奈川大学地域言語教育部会FD講演会が開催されました【2023年2月17日(金)】

 共通教養の組織改編やコロナの感染状況もあり、ようやく今回、地域言語教育部会として初めてとなるFD講演会を、ハイフレックス形式で開催することができました。  「ポストコロナ期の第二外国語教育について-コロナ期の「試行錯誤」をどのように生かしていくか」というテーマのもと、フランス語・ドイツ語・中国語教育に携わる3名の先生方に発表をいただき、それを受けて後半ではパネルディスカッションを行いました。ここではその内容についてレポートしたいと思います。  冒頭、地域言語部会長である廣

中国語スタート

廣田 律子 教授 異なる文化を知るはじめの一歩は言語を学ぶことからといってよいでしょう。 私が大学生の頃照葉樹林文化論が唱えられ、日本文化のルーツを探ることがブームでした。中国との往来が可能になったこともあり、自分の目で中国の人々の生活を見てみたいという思いに突き動かされ、1982年に南京大学に留学しました。 そのとき話せたのはなんとニーハオくらいでした。 南京大学の授業をズル休みし、長距離バスで最初に向ったのが周恩来の故郷淮安でした。 その頃はご飯一杯、パン一枚手

「他人に迷惑をかけてはいけない」か? -フランス語との出会い

熊谷 謙介 教授 私が大学に入学したのは、1990年代中盤でした。そのころ、第二外国語と言えばドイツ語かフランス語の二択で、スペイン語や中国語、朝鮮語(当時はそう言っていました)は履修する人が本当に少なかったのです。今考えれば、近くの国々を無視した西欧偏重というのか…。その点、現在は多様化が進んだ「正常化した」時代だと思います。 そんななか、私は言語学に興味をもっていたので、とにかくたくさんの言語を勉強しよう!と思い、最初の2年間はドイツ語にフランス語、ギリシャ語まで勉強

ドイツ語のススメ -経験的外国語学習法

小澤 幸夫 教授 僕がドイツ語を学び始めたのは高校2年の春だった。といっても学校でドイツ語の授業があったわけではない。テレビのドイツ語講座でである。 物事は最初が肝腎なので、そもそもなぜ僕がドイツ語を学ぼうと思ったかをここで書いておこう。僕が物心付いた昭和30年代の始めは、ようやくテレビが出始めた頃でラジオや新聞が主なニュースソースだった。小学校に上がる前で字も読めなかった僕でも、毎日新聞の第一面に同じ人の写真が載っているのに気が付いた。母に尋ねると首相の岸信介だという。

フランス語との出会い

阿部 克彦 准教授 私がはじめてフランス語に接したのは8歳の時でした。父の仕事の関係でベルギーのブリュッセルに引っ越しをすることになり、すぐに現地の小学校に入学することになりました。当時はまだ日本人(というよりアジア人)が珍しかったせいか、学校に入るなり全校生徒に取り囲まれたことをおぼえています。 はじめは言葉が一言もわからなかったので一年生のクラスに入れられ、担任の先生からフランス語の課外授業を受けることになりました。その後はヨーロッパだけではなく、北アフリカ(チュニジ

母語と私

ステファン ブッヘンベルゲル 教授  地理的、文化的なへだたりを思うと不思議なことですが、私の母国であるドイツと日本は共通点が多く、歴史的な経緯もあり仲がよいとよく言われます。 ドイツと日本の歴史的なつながりは、皆さんが考えるより古いかもしれません。というのは、早くも1861年から日本とドイツ(当時はプロイセン王国でした)は外交関係を結んでいたのです。それから160年以上にわたって、ドイツは日本にさまざまな影響を及ぼしてきました。 例えば、法律の領域です。日本の民法、商

「母語と私」-ソウルマル(Seoul言葉)の礼賛-

李 貞和 准教授 私の父は韓国の首都ソウルの市庁で働いていた公務員でしたので、私もこどもの時からソウルの四大門(東大門、西大門、南大門、粛靖門:シュクジョンムン)中で育ちました。 私が話したいのは家族の話ではありません。私の出身地のソウルマルについて話したいのです。ソウルマルは日本でいえば、江戸時代の江戸弁(江戸言葉)と似ていて標準語に近いですが、今は残念ですが、ソウルマルを使用する人はソウルの人口(約960万)の10%しかないようです。 ソウルマルは韓国の標準語だと思

わたしとスペイン語との出会い

兒島 峰 准教授 わたしがスペイン語に出会ったのは、中学の頃です。学校で習う英語以外の外国語を学びたいと思ったことがきっかけでした。初めからスペイン語と決めていたのではありません。もうひとつの出会いがなければ、これほどまでにスペイン語にのめり込むことはなかったと思います。 そのもうひとつの出会いが、アンデス音楽でした。偶然ラジオから流れてきた音楽に魅了され、スペイン語の歌詞の内容を知りたいと思うと、どんどんスペイン語の習得に熱心になっていったのです。 インターネットもな

4つの地名と私の物語

尹 亭仁 教授  「横浜」と同じく港町である「釜山」。私が育った韓国第二の都市です。 本学の面接のために東京から初めて横浜に来た私は、東神奈川の交差点でなぜか初めてではないような懐かしさを覚えました。その釜山で女子高に進学した私は日本とかかわりの深い「東萊(トンネ)」という学校の名前と一緒になぜかよく「東京」という文字を書いていました。毎日、おまじないでもするかのように。 大学で言語学を専攻し、3年ほど出版社で文字と向き合う日々を送っていた私に、1年間東京で日本語を勉強

ロシア語との出会い

堤 正典 教授  ある年、テレビでロシア語講座が開始されました。まったくの偶然から、テレビでの講座と同時にすでに放送されていたラジオ講座も聞きだしたのが私とロシア語の出会いです。 当時、ラジオ講座は一年間続き、ロシア語の基本的な文法・語彙を網羅されている内容でした。日本語や英語とずいぶん違っていたところに興味がわきました(あまり他の人にはいないかもしれません)。テレビ・ラジオの講座を数年続けましたが、文字・発音、いくつかの表現は覚えたものの、文法はなかなか覚えきれませんで

スペイン語との出会い

西田 依麻 准教授 「私、生まれる前からスペイン語と出会ってました。」と言ったら皆さんは驚かれるでしょうか。実際、私もその事実を知ったときには大変驚いたものです。 私の父は大学に在籍中休学をし、世界中バックパックの旅をしていたことがありました。およそ2年間の大冒険であったと聞いています。訪れた国々の中にもちろん、スペインも含まれていました。 数年前のことです。私は、その時はすでに他界していた父が残した「世界バックパック日誌」をなにげなく読んでいました。「南欧の国、スペイ

私とドイツ語の出会い

角山 朋子 准教授 大学1年生の選択必修科目で、ドイツ語と出会いました。とはいえ、実感としての出会いは、大学2年生の春休みに参加した、ドイツ南西部フライブルクでの約3週間の語学研修中だったかもしれません。 研修では、文法テストの結果、ろくにドイツ語を話せないにもかかわらず上級クラスへ(日本の学生にありがち?)。周囲の言うことが全くわからず、途方に暮れながらクラスに通って3日、帰り道で雨にあい、濡れながら寮に戻りました。なぜか私がいたフロアはほかに滞在者がいなかったため、そ

多言語との出会い

ヘーブ ステファン ヨセフ 外国人特任助教 スイスに生まれると、「スイス語」というものはありません。西欧大国のドイツ、フランス、イタリアに囲まれたスイスには、それぞれの言語の地域があるわけです(独語は3分の2、仏語は2割、伊語は7%、そして6万人のロマンシュ語母語話者がいます)。 スイスのドイツ語圏の地方出身者として、かつての私はそちらの方言を「狭い」と思い込んでいて、理想の探求のため多言語への道を歩み始めました。 中学校から勉強していた仏語と英語に加えて、ラテン語の勉