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ぼくは悪くない

 爽快な覚醒を夢見る前日の思惑とは裏腹に腸内から不愉快極まりない挨拶が聞こえてくる。

おはようございます。下痢です。

 1億秒ぶりに更新された記事を見て異常独身壮年男性の軟便情報を提供される読者諸氏の心中は察するに余りあるが元法学徒として不快なものを見ない権利などという悍ましい概念に表現の自由の膝を屈せしめるわけにはいかない。俺には俺が腹を壊したという情報を声高に宣言する正当な権利が存在するのだ。見ず知らずの異常独身壮年(不惑寄り)男性の軟便情報に邂逅する可能性に常に開かれているという事実が健全なる表現市場すなわち子供らの明るい未来を保証するのだ。


換骨奪胎、もとい閑話休題。


 俺は何も善良な読者諸氏に下痢情報を提供することを旨として筆を執ったのではない。「腹を壊す」というその表現方法に業腹なのだ。


 パソコンであれスマートフォンであれテレビであれ冷蔵庫であれ洗濯機であれ幾らか精密な構造を内包する機械が不調をきたした際に我々は口をそろえて「家電が壊れた」と言う。ご丁寧に「何もしていないのに」という枕詞まで添えて。圧倒的な被害者意識である。自らの責任を自覚して「パソコンを壊してしまったのだけれど……」とカスタマーサービスに電話をかける人間は一人としていない。


 それにもかかわらずこの世界で最も複雑で神秘的な人体の内部の不調については「腹を壊した」と他動詞を用いて表現する。何か腐りかけの野菜を食べたせいであるのか、腹を冷房の空気に晒して惰眠を貪ったせいであるのか、中長期的な仕事のストレスに苛まれ続けたせいであるのか、自由気ままという名の自堕落で不規則な生活習慣のツケが顕現したのか、何が理由であるのかなんて決して判然としていないのに、当然のように「腹を壊した」とさも全責任が自分にあるかのような謂である。なんとも妙なことではないか。


 我々は己ならざる種々の家電について、自動詞を用いて「壊れ」たというが、さりとて家電の自律性や主体性を尊重しているわけではなかろう。我々は普段それらの家電を「点け」たり「使っ」たりしているのであって、それらの家電が勝手に「点い」たり「動い」たりしているなどとは考えていない。それらが自分の意図通りに操作可能なうちは自らを主体として「使っ」ているくせに、思い通りの操作がままならなくなると途端にそれらを主語にして「壊れ」たというのである。自分が「壊し」た事実にはそっと目を瞑って。


 そうした人間の本質的なエゴイズムを今更俺は論難したいわけではない。それだけ自己中心的で高慢ちきな人間が、自分の腹にかぎっては「壊し」たと主体ぶる倒錯したあり方に異を唱えたいだけである。今俺の感じる下腹部の艱難辛苦が自らの意志で下剤を大量に飲み込んだが故にもたらされたものであるならば、俺は声を大にして俺こそが俺の腹を「壊し」たのだと宣言しよう。しかしながら、俺の下腹部に生じた塗炭の苦しみの明確な原因を俺は特定できないでいるのだ。明確な理由もわからないのに俺は軟便(否、もはや汁便といっても差し支えなかろう)の意を頻りに催し厠に何度も駆け込んでは全てを出し切ることの叶わない隔靴掻痒たる思いに苛まれている。これほどの不幸、これほどの理不尽があろうか。


 だから俺はここに高らかに宣言する。

 俺が腹を壊したのではない。

 腹が壊れたのである。俺は何もしていないのに。





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