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20240430日記:視覚・聴覚・触覚

以前に増していっそう、視覚的なアートをやってる人に会うことが多い気がする。

なぜか言語優位の脳みそに育ってしまったらしくて、それ以外に何か突出した分野がある方と会話すると、どこか不思議な感覚があっておもしろい。神経回路を思い起こすと、本来的に人間は言語があとにあるはずやから、実際は対話する相手の方が当然いい意味でプリミティブで、入力と出力の間に要らん要素が入ってないと思うんやけど。いや、プリミティブって言い方も微妙やな。「純粋」とかかな。

ほんの数日前、千さんの個展に行ってきました。5月11日(土)にMagaYura5周年記念ライブイベントでご一緒する画家さんで、中崎町Gallery Yolchaさんで開催の。クリタさんたちが主催してる「まちのひ朗読舎」でしか行ったことがなかったから、ギャラリーとして使用されてるのは初めて見たんやけど、「Gallery Yolcha」って名乗るぐらいやから、多分ギャラリー使用の方がメインなんやろ。知らんけど。

メインのモチーフがありつつ、色や曲線で意味やメッセージが異なる作風で、作風の変遷も含めて吸い込まれるような雰囲気がありました。千さんに聞くと、タイトルをつけるのはある程度描いてからとのこと。どうやって感想書いても正確に伝わらん気がするから、直接観て。5月11日のイベントも。MagaYuraで待ってる。


そして今日、西成のココルームに行ってきたんですけど、そこのスタッフさんで絵を描いている方がいて、その方の話も聴きました。その方も個展をするとのこと。最近身の回りに個展をする人が多いように感じるのは、多分単にそういう芸術をしてる方とお会いする機会が多いから。人生は不思議。

こちらは明日かららしい。芦原橋にて。絶対行く。そんなこと考えたことないはずやのに、「空のかたさがわからない」ってタイトルもなんかわからんけど納得してしまう。聴いてると、この方は手触りが本質と感じてるみたい。繊維の話おもしろかったなぁ。言語化してもらうと、意識の幅が広がって、世界がより詳細に見えてくる。ような気がする。解像度。

絵の知識が一切ないまんま、そういう活動をしている方と出会って見せてもらうことが多いのもあって、出てくる感想はどこまで行っても素人の感想にしかならん。これはある種の喜劇でも悲劇でもあって、そこには一部開き直りが入ってる。ただ、わかったことがあって、それは、平面上に描いてるように見えるものも、目の前にすると確実な3Dであるっていうこと。画材には凹凸があって、作品は壁よりも前にあって、それは空間に置いてるわけで。そう思うとどこまで行ってもこれは3D。

つまり、そこには手触りがあって、触れへんくても視覚で補完してる。

言語化してしまう人はこれをどういった手触りで、こういった場所の効果があって、とか、いろいろと言葉にしてしまうと思うんやけど、本質的にはそんなことをしやん方がいい気がしてる。アーティストの視覚的な作品はその人の世界との出会い方・繋がり方やと思うし、それを言語化することは、世界と人(作品)の繋がりをわざわざ断絶させること、というか。古代ギリシャあたりにこんな思想あったよな。芸術は自然の模倣みたいな。何やったっけ。忘れた。

しかも不思議なことに、視覚的な芸術をしてる方たちと話してると、「話すことが苦手」って意識を持ってることが多いような気もして、でも受ける印象は真逆やったりする。多分やけど、その方々は言葉をとんでもなく丁寧に扱ってて、でも世界は言葉に対してもっともっと適当。だから、スピードに追いつけてないように思ってしまうのは当然で、もし正誤の話をするんやったら、どっちかというと世界が間違えてる。

昔よりも自分自身がマシになったような気がするのは、このことが見えるようになったってのが1つと、もう1つは金を稼ぐことにおいては世界を切り取る表現なんてどうでもいいってわかったから。モードの違い。みたいな。ただ、世界の見え方が違う人はおもしろいし好きやし、何より羨ましい。裏の苦労にリスペクトを示しつつ。

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