【要約練習】Douglas B. Downey, Dennis J. Condron, 2016, "Fifty Years since the Coleman Report: Rethinking the Relationship between Schools and Inequality"

※本記事は、Douglas B. Downey, Dennis J. Condron, 2016, "Fifty Years since the Coleman Report: Rethinking the Relationship between Schools and Inequality" の要約です。筆者の要約練習になりますので、一部お見苦しいところもあるかと思いますが、あたたかい目で見ていただき、もしよろしければ誤りの指摘やアドバイスなどいただけると幸いです。

〈要約にあたって意識すること〉
1.少なくとも大学生(学部や専攻問わず)は誰でも読んで意味が分かる
2.概念やケースの違いができるだけクリアに伝わるような文章にする
3.分量は「感想」を含めずA4(10.5pt)で2~3枚以内とする

はじめに

1966年のコールマン・レポートでは学業成績は子どもの家庭環境と相関があり、生徒の学校生活はほとんど関連がないとされた。一方で、レポート以後の多くの社会学者は、学校は不平等を拡大させており、家庭環境の恵まれた子どもに有利に働くと主張してきた。この「決定的見解(critical perspective)」は、「学校が社会経済的不平等を和らげる」とする近年の研究によって疑問符が付されるようになってきている。学校は不平等を促進するのか、それとも抑制するのか、どちらなのだろうか。

学校についての決定的見解

学校は不平等を再生産しているという「再生産論」の論者は、学校が中産階級や上層階級の文化資本(cultural capital)を持つ者にとって有利な環境であり、そのため不平等が世代間で受け継がれていくということを主張してきた。そこからさらに、学校間での不平等な教師の質や経済的不利を抱える子どもたちが集中するという地域的特性、(学習)習熟度別のカリキュラムの差異などを挙げながら、学校が「不平等を悪化」させると主張する者もあらわれた。ここで重要なのは、不平等の“再生産”と“悪化”の明確な違いを意識することである。“再生産”論では子どもたちが生来抱えてきた(社会経済的)不利は教育機関を通過する中で変わらず維持されるということになるが、“悪化”論では学校はそうした不利をさらなる不利にする悪しき機能(pernicious role)があることになるのである。

1966年のコールマン・レポートおよびそれを参照した教育機会の平等(Equity of Educational Opportunity)の研究では、「不平等は家庭や近隣住民、友人などといった環境的要因の影響が大きく、学校は小さな役割しか果たしていない」とされていたが、それ以後数10年は、教育社会学者はそうした研究を「(教師の質をはじめとした)学校的要因が測定されていない」と厳しく批判し、学校を問題化する見方を支持していった。しかし、何が明確な根拠となるかを考えずして学校と不平等の関係を判断するのは難しい。具体的には3つのハードルが存在しており、①生徒は学校生活と学校外の生活のどちらからも影響を受けるが、その2つを明確に分かつのは難しいということ、②学校生活のあらゆる影響要因を検討することは困難であること(大概1つしか検討できていない)、③学校要因を学校外要因から切り離せたとして、“学校”要因による不平等のほうが“学校外”要因による不平等を上回ることを示すのは難しいということ、がある。
こうしたハードルを乗り越えるために有効なのが、季節比較研究(Seasonal Comparison Study)である。この研究法は、学校の通常時と夏休み時のデータを比較することによって、学校の不平等への影響を調べようとするものである。この方法では「通常時の学業等への影響が夏休み時のそれにほとんど及ばない」「夏休みの生活習慣が通常時と大きく変わらない」などのいくつかの仮定を置く必要があるが、地域的特性等による一般化の難しさを考慮しても、調査結果からいくつか学ぶことがある。1970・80年代の大規模調査では認知スキル(cognitive skill)における社会経済的格差が通常時より夏休み時のほうがより早く開いていくことがわかった。また1998年には集団追跡が可能になるデータ(ECLS-K)ができ、社会的ふるまい(持ち物を整理する、ルールを守るなど)や肥満などは学校にいるときのほうがそうでないときより社会経済的格差が開きにくいことが明らかになった(しかし、最近の分析では白人有利・黒人やアジア系不利といった人種間格差があることが指摘されている)。いずれにせよ、学校が格差の増進だけでなく格差の補填をしていることは明らかになっており、学校による不平等への影響を様々な次元で捉える新たな枠組みが必要になってくる。

“屈折”構造(The Refraction Framework)

学校の機能をとらえる新たな概念の核となるのが、「学校は不平等の“屈折器(refractor)”である」というアイデアだ。これは「光が屈折器を通れば、スピードが遅くなったり、早くなったり、そのままだったりする」というように、学校の機能は①不平等に影響しない(neutral)、②不平等を悪化させる(exacerbatory)、③不平等を和らげる(compensatory)、のいずれかである、とするものである。この枠組みには(これまで注目されてこなかった)③不平等を和らげる機能を他の機能と同水準に引き上げることや、学校入学前の不平等についての重要性を強調できることといった利点がある。
本論文では上記の機能のうち③の格差補填機能に注目する。ここでの目標は、学校の格差補填機能にあたる諸機能をすべて特定することではなく、学校が学習の社会経済的格差を補填する潜在可能性を議論することである。学校が格差補填機能を果たすやり方として、1)カリキュラムの統一化によって同学年の上位層から下位層まで共通の学習経験を持つこと、2)社会経済的に不利な子どもたちは特別な支援を行う対象になること、3)教師は基本的に平等主義的な考え方を持ち学習困難な生徒を支えようとすること、という3つがある。

学校の補填機能の可能性を見逃すことの損失

学校が現在認められている以上に補填機能を果たしているとしたら、その見落としはどのような損失を招くのだろうか。まず調査に対する損失だと、不平等を形成する学校外の要因を見落とすことが考えられ、テストスコアの国際比較の際にも各国の社会状況を考慮できないということがある。また政策に対する損失に関しては、学校の補填機能を見落とすことが、認知スキルなどの社会経済的格差が学校入学前にほぼ形成されているという視点を欠落させ、(教師の質の改善をはじめとした)「学校改革」による格差是正を行うことにとらわれてしまうことになる、ということがある。

結論

本研究では、学校が「ある」状態と「ない」状態を比較する季節間比較研究を参照することで、「学校は不平等を再生産する、あるは悪化させる」という見方は一面的であり、実際には学校には格差補填機能もあることがわかった(したがってコールマンの「学校は社会経済的格差に対してほとんど影響しない」という結論も誤っていたといえる)。こうした補填機能をふまえ、学校外要因(特に学校機関に入る前に形成されるもの)を考慮する文脈的理解がなされるべきであり、それにしたがって教育政策も考えられる必要がある。ただし補填機能といっても実証的に明らかになっているのは認知スキルや肥満についてである。今後50年は、様々な次元において学校が不平等をどのように「屈折」させるのか、影響なし・悪化・緩和の3つの機能をバランスよく見て検討していかなくてはならない。

〇感想

「学校は不平等を悪化させる」という“決定的見解”に対して反論する論文。学校には不平等に対し中立・悪化・緩和(補填)の3つの機能があることが示されるが、これが学校が「ある」状態と「ない」状態を比較することによって主張されているのがおもしろかった(著者的には反事実的(counter factual)なアプローチ、というそう)。補填機能に注目しないことがむやみやたらな「学校改革」を引き起こすという主張も非常に示唆的なものだった。米国の教育(歴史)社会学者のD.ラバリーもまた学校改革をけん制する主張を展開していた(『教育依存社会アメリカ』)が、こうした補填機能への着目は「学校改革を控える」ことをよりポジティブに考えることを可能にしてくれるように思う。
翻って日本では、昨今の新型コロナウィルス流行に伴う一斉休校措置により、学校が「ない」という状態を不可避的に自覚することになった。今でも学校が「ない」ことによる格差拡大を懸念する声も多く聞かれているが、学力にとどまらない“何の”格差が広がっているのかについていろいろと考える必要性を感じる。格差の多元性を、今後発表される調査報告や研究結果をまなざすうえでのフレームにしたい。

〇文献のリンク

https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/0038040716651676#_i1

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