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ASKA 「青い海になる」の歌詞を考える(アルバム Breath of Bless 12曲目)

こんにちは、ジニーです。

随分と、時間が空いてしまいました。
いろいろと忙しく、曲を聴き込み、歌詞を読みこむ時間がうまく持てず時間がかかってしましました。

今年、ずっと続けてきているASKAのアルバム「Breath of Bless」の歌詞考察もついに12曲目まできました。
ようやく「青い海になる」まで来ました。

この曲はこのアルバムの中でも、特に好きな曲で、勝手に自分を投影してしまっているところも多く、情報をまとめるのに苦労しました。
いや、まだまとめ切れていない状態ですが、たぶん明確な出口はないので、何とか頑張って書いていきます。

■否定的な視点から切り取る景色から警告のようなものを感じる

ただ他人を食べつづけて いつか後悔する人
自分を差し出して 小声で苦しむ人

「弱肉強食」という言葉が真っ先に浮かびましたが、なんかしっくりこない。
もっと、違う表現があっている気がするのです。
言葉をそのまま受け取ると他人を食べているとなりますが、もちろんそんなカニバリズム的なことではなく、僕は人を利用して自分の利益を得ている人という捉え方をしました。

例えば、迷惑系YouTuber。
人に迷惑をかけることで炎上という形で再生数を増やす。YouTuberにとっては再生数を増やすことが目的なので、その目的を果たす手段ではあるわけです。
ただ、あまりにモラルから逸脱してしまい逮捕されえる方もニュースで目にすることがあります。

もうひとつ、「自分を差し出して」というのは、自分のプライベートをさらけ出すことで利益を得ているような人もいるので、それを指しているとも思えるのですが、もっと広義的に身を削りながら生きている存在すべてを指しているような気もします。

そういった、誰かを食い物にして生きるのか、身を削り生きているのか、大局的にはその二つしかないという意味が込められているのかと感じました。

印象的なのは、一方は後悔して、一方は苦しんでいるということ。
どちらもネガティブな状態にある。
ここに、なにか危機や危険を感じるのです。
このままでいいのかという、警告のようなもの。
メロディーからもそうですが、歌詞からも不安をとても感じるのです。

■ASKA節の真骨頂ともいえる歌詞に、ニヤけが止まらない

続く歌詞も、ASKAらしさが爆発して、好きすぎてたまりません。

針で釣られたような 雲が餌に見える
空で魚になった 飛行機が雲に向かう

よだれが垂れてしまいそうな比喩表現ですね。
合わせて感じられるのが、世界というものを非常に閉鎖的なものの見方にできる言葉のチョイス。
まるで、自分たちの意思ではどうにもならないところで意識の外に住む大きな何者かが、僕たちの世界にちょっかいを出しているような。
そんな、何とも言えない不安を感じる世界観にいざなわれてしまいます。
この言葉の魔力がASKAの歌詞の真骨頂ですよね。
だから歌詞を突き詰めたくなる。

■僕たちは、本当に幸せに包まれているのだろうか?

特等席のベンチで見てる
流行りの店 並ぶ行列を

いま幸せは 自由じゃないのか
幸せは 誰のものなのか

冒頭でYouTuberを一つの例えとして考察に用いましたが、たぶんこの歌詞に導かれて感じた事なんだと思います。

流行りの店に並ぶ行列に混ざる人、それを見る人。
どちらが良いとか悪いとか、そういう話とは少し違うのですが、見ようによっては行列に並ぶこで「流行りに乗っている」という目的を果たしているのかもしれない。
有限な「ここからは消えていく時間」を遣い、不自由に身を投じている姿に、何者からも解放される自由とは違うものが見えたのかもしれません。

誰かと同じ色に染まることで満たされるアイデンティティ。
満たされることが自由というのであれば、そこに生まれる不自由もひっくるめて自由なのでしょう。
そうすると、幸せとは何かが霧の向こうに隠れてしまうような気もします。

■どこまでも孤独を感じてしまう歌詞が続く

2番に入ってからも、モノ寂しい歌詞は続きます。

君の目には僕が 闇のように映ってる
僕の目には君が 真っ暗闇に映ってる

1番と同様に、似たものの対比。
前者は「いつか後悔する人」と「小声で苦しむ人」、今回は「闇のよう」と「真っ暗闇」。
どちらの目にもおよそ闇が広がっており、光さえも吸い込んで消してしまいそうな深さを感じます。
そんな濃い闇の中に置かれた中で、手探りで進むのか、ただじっと闇が貼れるのを待つのか?
ふと、迷宮のReplicantを思い出しました。

霧のさ中を かき分けながら
夜の高速 街の洞窟
寂しすぎる瞬間
「迷宮のReplicant」

そう、ただひたすら寂しさを感じるのです。
君と相対しながらもわかり合えない孤独。
何処までもそれを突き付けられてしまう歌詞に感じるのです。

ここで立ち止まれば どんな価値を得るのか
寒い冬の次は 本当に春だろうか

「これまではそうだった」と言えるセオリーがなくなりつつある昨今。
次の保証がないまま、立ち止まることは価値を得るどころか、取り返しのつかないことになりかねない。
闇の中だろうと、夜明け前だろうと、突き進まなくてはいけないのです。
しかし、そこに確証は何もなく、あるのは勇気ではなく、不安ではないのかと思うのです。
それは続く歌詞からも感じられます。

心臓かすめちゃもう笑えない
握った櫂で 海をつついても

恐怖は、感じた瞬間に心臓が飛び跳ねるような動悸を連れてきます。
そこに心臓があったことを思い出すような体験を誰も出していると思います。
「心臓かすめちゃ」というのはそういった意味が込められた歌詞に感じます。
もう一つ、確信を疲れたときも、同じようにドキリとしますね。
ここはそのどちらもがあるのだと思います。
わかり合えないことがあること、いまが闇の中にあること。
その不安を感じてしまっているから。

もうひとつ。
「握った櫂で 海をつついても」という歌詞。
これが、ものすごく好きなんです。
まるで進んでいない感触。
海をかくのではなく、つついているようでしかない感覚。
これ以上ない表現方法に感じます。

なにも自分の居場所も、自分自身もわからなくなって、暗い海原で一人佇んでいる様子。
これ以上ないほどの孤独です。

■「朝」に込められたものは何だったのか?

2番のサビに入っていきます。

いま朝になってここはどこだと
朝になって僕は誰だと

朝になり、夜の闇が晴れて、しかしまだ自分と自分の居場所をしっかりと持てていません。
ある意味、ここが始まりなのでしょう。

僕は櫂を漕いだ
黒い海で櫂を漕いだ
やがていつか やがていつか
青い海になる 青い海になる
青い海になる 青い海になる

Cメロ部分の歌詞で、朝が来るまでの「僕」のがむしゃらな様子が、何かを求め進もうとする姿が浮かんできます。
朝が訪れ、視界に色が戻ってくる中で、海の青さが還ってくることを強く、何度も何度も、自分に言い聞かせるようにリフレインします。

ここまで不安のさなかになった場面が、ここにきて、何か希望のようなものを持つように感じられます。
青い海になることを信じて、櫂を漕ぎ続ける。
信じる、信じる、自分を、信じる。
そんな強さを感じるのです。
だから、ここにとてつもない力と希望を感じる。

「朝」は曲の中の場面転換の一つの舞台装置として使用されている一方で、何か「変化」の代名詞的に用いられているように感じます。
過去、IDという曲でもやはり「朝」は似たような意味合いで使用されているのです。

馴染めないまま川を渡る
僕の背中を不思議な顔で朝に帰した
「ID」

麻酔を打たれたように夢の深い場所から朝の訪れとともに帰ってくる情景を上記の歌詞のようにあらわしていますが、匿名希望の人があふれる中で「僕」の認識していく過程がここには綴られていると感じていて、自己存在証明を得た一つの証明として「朝」の訪れを描いているように感じています。

■「青い海になる」というタイトルには変化を受け入れ希望を求める意思が込められている

ここまで読み進めてきて、不安や孤独の中から、いつか来る希望を求めて進んでいく意志の強さを感じることができます。

自分らしさや、人とは違う幸せの形を持つことが難しくなった現代。
いつしか闇夜の海に放り出された僕らは、青い海を目指して買いを漕ぎ続けなければいけないのだと、そういっているように感じます。
漕ぎ続けた先に見える景色がある、青い海が広がる朝がある。

この曲に感じる意志の強さが、いつしか聞き手の心を奮い立たせてくれる。
だから僕はこの曲が好きなんですよね。

だいぶ思いがこもってしまい、えらい長文になってしまいました。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回も是非読んでいただけると嬉しいです。

よろしければ、前回の記事もご覧下さい。


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