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ジョージアの旅②

 二日目は首都トビリシから古都ムツヘタへ。バスで揺られること約1時間の旅だった。今日(10月14日)は年一回のジョージアの伝統祭「ムツヘトバ・スヴェティツホヴェロバ」が開かれる日。
 祭りの一環として、陽が西に傾きかけてきた午後4時15分頃、加藤登紀子さんが、いかにもバラをモチーフにしたかのような真っ赤なドレスに身を包んで、野外ステージに登場した。

伝統祭「ムツヘトバ・スヴェティツホヴェロバ」におけるの野外コンサート会場


 越路吹雪さんらの歌唱で知られるエディット・ピアフの名曲「愛の讃歌」でスタートした。続いては、スタジオ・ジブリ映画「紅の豚」の中で登紀子さんが声を担当したジーンが歌う「さくらんぼの実る頃」。
 2曲目が終わるとハプニングが起こった。登紀子さんの左側から地元の女の子が飛び出してきて登紀子さんに抱きついたのだ。登紀子さんは「Very Happy」と相好を崩した。観客は喜んだ。

登紀子さんと抱き合った後にステージを去ろうとする少女


 そして3曲目に選ばれたのは「愛のくらし」。4曲目は「琵琶湖周航の歌」だった。登紀子さんはコメントした。「今歌ったのは大きな琵琶湖のほとりにある町が実はムツヘタと姉妹都市だという歌です」。
 すると大きな拍手が起こった。登紀子さんは続けた。「私の曾おじいさんは、その琵琶湖のほとりで生まれました。私が生まれたのは遠く離れた中国のハルビンというところです」。
 そして歌ったのは「遠い祖国」という作品だった。
 それから、登紀子さんは41歳の時の「百万本のバラ」という歌との出会いを説明し、「この歌はジョージア生まれの天才ニコ・ピロスマニのとてつもない恋愛についてで、人が遂げられない夢であっても愛があればかなうかもしれないという勇気を世界の人々に与えた歌だと思います」と話した。

数奇な運命を辿った「百万本のバラ」
 「百万本のバラ」という歌のもとになったのは、1981年にラトビアで作られた子守歌「マーラが与えた人生」。「マーラ」はキリスト教の女神の名前で、宗教が否定されていたソ連では、そのタイトル自体にプロテストの意味が込められていたのではないかといわれる。
 独立を求めたラトビアは、1917年のロシア革命後にソ連軍と戦って勝利し、翌年に独立国になった。しかし、国際情勢に翻弄される。1939年、ソ連とナチスドイツの密約によって、ソ連軍がラトビアなどのバルト3国に侵攻。1942年にはドイツも参戦し、ラトビア軍は敗北。再び、ソ連の支配下に置かれることになった。
 ラトビアの詩人レオンス・ブリエディスのオリジナル歌詞をロシア語に翻訳したのは、ソ連体制に批判的だったアンドレイ・ボズネセンスキーだった。彼は、グルジア(今のジョージア)の貧乏画家ピロスマニを主人公に、この「百万本のバラ」の物語を託した。この画家がフランスの女優マリガリータに一方的な恋をしたことを描いたのである。
 さて話をコンサートに戻そう。「百万本のバラ」のイントロが始まるや手拍子が会場から沸き起こった。最前列の地元の女の子たちは熱心にステージを見上げていた。曲が終わると大きな拍手が再び沸き起こった。
 次もジョージアに関係する「スリコ」という歌。スリコとは男の人の名前で「地元の人ならばすぐにわかる歌」だという。

バックコーラスたちと手を上げる登紀子さん


 立て続けに「トビリソ」という歌が登場。トビリソとはトビリシのこと。
 いよいよラストの曲となった。登紀子さんは「最後にもう一曲。わたしのオリジナル曲で「ガウ・マルジェス」、 日本語で「乾杯」。今日はこの「カンパイ」という日本語だけ覚えて帰ってください」。
 拍手とともに歌い始めた登紀子さん。観客から「カンパイ、カンパイ、カンパイ」の歌声が拍手の嵐とともに沸き上がった。
 コンサートは午後5時に終了。感動的なおよそ45分の時間だった。

 (続く)

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