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ジョン幻の世界ツアー

 1970年代前半、ジョン・レノンはFBI(米連邦捜査局)から尾行・盗聴されていた。彼とヨーコの新左翼のリーダーたちとの接触が米当局の気に障ったからである。そして76年7月にアメリカ永住権(グリーンカード)が認められるまで、米政権との闘いが続く。
 当時はベトナム戦争に対する反戦運動の高まり、公民権運動のあとの人種間の争いの高まりなどを背景に、ジョンとヨーコは「政治の季節」の真っただ中に躍り出ていた。
 ジョンとヨーコが恐れられたのは人気・影響力が絶大な彼らが「裸の王様」を見抜く能力にたけ、本当のこと、つまり真実を話し、歌ったからではないだろうか。
 ジョンの71年の作品に「兵隊にはなりたくない」がある。「兵隊にはなりたくない、母さん、死にたくない」という歌詞の作品で、ベトナム戦争を推し進めていた当時のニクソン米大統領らを当惑させたに違いない。
 ジョンはかつてこう言った「直接、政治に関わっていないけれど、ぼくがやることは、最終的に政治に関係する。でもこれは誰にでもいえることだ。いかなる発言、記録、そして生き方さえもが、政治的な態度表明なのだ」(ジェイムズ・A・ミッチェル「革命のジョン・レノン」共和国)。


 また、「愛、平和、コミュニケーション、ウーマン・リブ、人種差別、戦争。ぼくらがこれから話し合いたいのは、こういうテーマだ」とも。
 彼らの政治への関りのピークといえるのが、72年発売の二人のアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』だ。
 黒人差別に対するプロテストソング「アッティカ・ステート」や、マリファナ2本の所持で禁固10年を言い渡された活動家の釈放を求めた「ジョン・シンクレア」、女性差別解消を訴えた「女は世界の奴隷か」など、政治的メッセージ満載のアルバムである。
 アルバムジャケットにはニクソン米大統領と中国の毛沢東主席の裸踊りの合成写真が使われていることも話題になった。
 もしジョンが生きていたらという歴史のIfを口にする人は多い。
 1980年12月8日、ジョンは凶弾に倒れた。40歳だった。75年から「主夫」生活を送っていた彼が音楽活動を再開した矢先だった。
 そして彼は政治からも手を引いたわけではなかった。政治的活動も再スタートさせようとしていたのだ。
 米西海岸で白人に比べて賃金などの待遇で差別されていた日系アメリカ人労働者たちを支持する声明を送ったばかりで、ジョンが凶弾に倒れたまさにその週のうちにも、彼とヨーコは息子ショーンを連れて、サンフランシスコで行われる集会に参加する予定だった(ジョン・ウィナー著「カム・トゥゲザー ジョン・レノンとその時代」PMC出版)。


 問題企業の中にはしょうゆで知られる日本のキッコーマンが経営参画する米国最大の日本食品商社JFCと他の日本人所有のふたつの会社があった。
 そしてウィナー氏は、そういった労働争議の渦中にあった企業に対しては「南カリフォルニアにおける日本人ビジネスマン団体」や「三菱」、「住友」といった財閥の「実質的支援があった」と指摘した。
 カリフォルニア州知事を長年務めたことがあり、当時は第40代米大統領への正式就任を待つばかりだった共和党のレーガンのおひざ元である。レーガンといえば、反共を標榜するゴリゴリの保守主義者として知られた。
 ジョンの不可解な死の背後にレーガンの影を見る人も少なくなかった。
 政治的活動を再スタートさせようとしていたジョンとヨーコ。もちろん、彼らはショービジネスの世界でも本格的に「スターティングオーバー」するつもりだった。
 ジョンが亡くなっていなければ、彼はヨーコとともに81年3月から日本を皮切りにワールド・ツアーに出る予定だった(80年12月10日付日刊スポーツ)。
 ジョンとヨーコは移籍先のゲフィンレコードを通じて、ビートルズ来日を実現させたことでも知られる日本のプロモーター永島達司氏に強く要請してきていた。
 「(81年)3月4日初日の日本武道館公演5回と大阪を中心に、ヨーコ本人の「広島、京都でもやりたい」という希望も入れて10回の全国公演を予定。あとはレノン側からのOKサインが出るのを待つばかりだった」。

 

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