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ビートルズ側近マルの本②

 【スピリチュアル・ビートルズ】マル・エバンスが残した日記などをもとにケネス・ウーマックがまとめた新刊「Living the Beatles Legend The untold story of Mal Evans」により、マルがビートルズのローディーになるまでの歩みを追っていきたい。
 若きビートルズをイングランドのダンスホールやボールルームなどのライブ会場に送り迎えするために使っていたのは、1962年夏にブライアン・エプスタインが買ったクリーム色のFord Thamas 400E Express Busだった。

1958年Ford Thamas 400E Express Bus

 当時運転手を務めていたのはニール・アスピナール。21歳だった。
 27歳だったマルはまだローディ―ではなかったもののビートルズの連中とはすでに顔見知りだった。
 通信会社の技術屋だったマルには奥さんのLilyと息子Garyがいた。
 1963年1月11日、イギリスで第二弾シングル「Please please me」が発売された。ビートルズはラジオやテレビに出演するためにロンドンに行くことになった。しかし、ニールが熱を出してしまった。
 ロンドンに送り届けなければいけないニール。そんな時にマルたち夫婦はキャバーンに赴いたのだ。ニールはマルに代わりに運転手をやってくれと頼んだ。それをマルは引き受けた。
 車中、エルビスのファンだったマルは、エルビスを目指していたビートルズの面々と話が弾んだ。ジョージはエルビスの「I forgot to remember to forget」を歌っていたが、歌詞が本来「I'm so blue and lonely」というところを「I'm bloody lonely」と変えて歌っていたという。
 62年の10月8日に「Love me do」のプロモーションのためにビートルズはロンドンに行って以来の2回目のロンドン行きだった。音楽雑誌NME(New Musical Express)のリバプール出身のジャーナリストAlan Smithと会ったりした。マルはまだロンドン中心街を運転したことがなかった。
 リバプールに戻ると、マルは、ピートの母親モナ・ベストのカスバ・コーヒー・クラブの上にある部屋をニールが借りていたのだが、そのクラブのあるウェスト・ダービーへと行って車をおいた。そしてマルはMorsley Hill地区にある自宅へとバンを走らせた。

現在のカスバ・コーヒー・クラブ


 それは63年1月21日の昼間のこと。霧が濃い日だった。
 その頃までにはマルはもうビートルズの一員のようになっていた。止まる時は、マルはリンゴとポールと同じ部屋だった。ジョンはジョージと同じ部屋だった。彼らが食べ物を頼むときにはいつも「5人前」頼んだ。
 話は戻る。田舎道をバンで走行中トラブった。フロントガラスが割れてしまって粉々になった。そのまま中途半端に割れているとかえって危険だと判断したマルは手を帽子で覆うとフロントガラスの残ったガラス部分にパンチして完全に壊してしまったという。
 そのまま車を走らせたが、車内の温もりは瞬く間に冷たい外気にさらされてみんな凍えてしまった。ビートルズの連中はバンの後部座席で身体を寄せ合ってウィスキーを回し飲みして暖をとった。

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