ジョージアの旅①
ジョージアに来ている。かつての旧ソ連の構成国グルジアである。大関を務めたことがあった栃ノ心の故郷でもある。だが、日本の人にとっては地理的に遠い国であるだけでなく、馴染が薄い国だと思う。
そんなジョージアに来るきっかけはベテラン歌手の加藤登紀子さんだった。登紀子さんとのご縁は湯川れい子さんの取材をした際、湯川さんから紹介された登紀子さんの本「百万本のバラ物語」だった。(ロシア、ウクライナを自らの心身で知る加藤登紀子さん 新刊「百万本のバラ物語」に込めた思いとは | OVO [オーヴォ] (kyodo.co.jp))
その後、登紀子さんのライブに招いて頂き、すっかり登紀子ワールドにハマっていった。昨年12月27日、つまり登紀子さんの誕生日に開かれたほろ酔いコンサートも堪能した。
さて、ジョージア入りしたのは15時間近くに及ぶ飛行機の長旅が終わった後のこと。バスで首都トビリシの旧市街に向かった。5世紀まではムツヘタが首都だったが当時の王がトビリシへと都を移したのである。
ムツヘタは広い平野にあって守りにくかった。それに対してトビリシは山に囲まれていたことが遷都の理由だったようだ。5世紀ぐらいに小さな城壁を築いた。しかし、モンゴル、ペルシャが攻め込んできたように常に外敵を意識せざるをえない歴史を辿るのである。
まずはメテヒ教会へ。そもそもは5世紀に建てられた小さな教会だった。13世紀にモンゴルの襲来にあい、破壊された。ソ連時代、共産主義は宗教を認めないことから大半の教会は壊されたが、メテヒ教会は生き残った。しかし、劇場としてだった。そしてソ連崩壊後に再び教会になったのだ。
旧市街には教会のみならず、ユダヤ教のシナゴーグ、イスラム教のモスク、アルメニア教会などがある。アルメニアが一番古くキリスト教をとりいれたというが、ジョージアも西暦337年に続いたといわれている。
私も祭壇前にろうそくに灯をつけて飾った。一本1ラリだった。
次に行ったのはシナゴーグ。ユダヤ教徒たちの集会所である。キリスト教でいう教会とは違う性格が歴史的にある。普段は中に入れるが、この日はダメだった。紀元前6世紀のいわゆる「バビロン捕囚」の頃からユダヤ人がジョージアに来るようになったという。
現在のシナゴーグは1904年に建てられたもの。今、およそ4000人のユダヤ人がジョージアにいるという。今もパレスチナとの紛争が繰り返されているイスラエルはユダヤ人国家である。その国旗が掲げられている。シナゴーグの前にはたくさんの猫たちがいた。
そして旧市街を散策した。まず出会ったのが旧ソ連時代の有名女優ソフィコの像。次に宴会の進行役としてジョージアでは有名な「タマダ」の像だ。カンツィという酒器を手にしている。本来は動物の角で作られる。
カンツィは底が尖っていて置くことが出来ない。そのため一度酒を注がれたら飲み干さなければいけなくなる。酒とはワインのことだろう。
というのもジョージア・ワインは8000年の歴史を持つ。ワインはフランスではなく、ジョージアだと地元の人たちは胸を張る。
そして昔、市内を流れるムトゥクヴァリ川が重要な交易路だったことから多くの商人たちが集まったことが分かる建物がある。商人たちが使った「キャラバンサライ」という隊商宿である。
次に訪れたのはシオニ教会である。もともと木製の小さな教会があったというが、13世紀のモンゴルによる侵略で破壊された。復元されたものの中世に再び破壊され、現在の建物は17世紀に建築されたもの。近くに鐘楼というお祈りの始まりを知らせる鐘がある。15世紀の建築物。
ハマムとよばれる温泉が集まるエリアにも行った。ただ18世紀には3000以上あったお風呂も今では30ほど。
モスクにも行った。中には入れなかった。
そして高台のナリカラ要塞へ。全長は5キロ程度。中世からあったがペルシャ人の侵略を受けたりした。そして、この要塞を「ナリカラ」すなわちペルシャ語で「小さな要塞」と名づけて今日に至る。
(続く)
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