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回想する星加ルミ子

 【スピリチュアル・ビートルズ】元「ミュージックライフ」編集長の星加ルミ子さんといえば、日本人としてビートルズを初めて取材した記者として知られている。1965年から5年連続でメンバーの4人を取材した。
 「今から58年前、ビートルズが日本でも次第に人気となりミュージックライフとしても会いに行こうじゃないかとなったのです」と星加さんは2023年7月1日(土)、イベントスペース「李世福のアトリエ」(横浜市中区山下町232金太ハイツ1F)で行われたトークショーで当時を回想した。

ミュージックライフ編集部での星加ルミ子さん


 ビートルズと初めて会った記念日は65年6月15日。星加さんには作戦があった。当時、黒澤明監督の映画が世界的に知られていた。日本といえば侍だと直感的に思い、マネージャーのブライアン・エプスタインへの贈り物を当初のカメラから日本刀に変更したのだった。
 問題はどうやって運ぶかだった。しかし、星加さんは手荷物として飛行機で一緒に持っていったのだ。おかっぱの20代そこそこの女の子がまさか日本刀なんて持っているとは思われなかったのだという。
 ロンドンについてブライアンに会って日本刀を渡すと「これがエプスタインのハートをぐさりと刺したのです。すっかり気に入られてしまったのです」と星加さんはいう。3時間近くの会見が実現した。

羽田空港でのファンたちの出迎え
 帰路について星加さんとカメラマンの長谷部宏さんの乗った飛行機は羽田空港に到着した。「すると50-60人くらいのビートルズファンが迎えにきてくれていたのです。私はそんなことを思ってもいなかったので、ムームーに草履を履いて出て行ったら飛びついてきました」。
 「ポール(・マッカートニー)と握手したのはどっちの手なの?」とか「キスされたのはどっちのほっぺたなの?」とか訊かれたという。「もうほっぺがちぎれるのではないかと思ったほどでした」。
 そういうファンたちが羽田に駆けつけてくれたのだ。そしてビートルズとの会見の模様を伝えたミュージックライフの65年8月号は飛ぶように売れて、いつもの5万部を大きく上回る25万部を売り切った。
 66年6月下旬、ビートルズ初にして最後となる来日が実現した。その時、長谷部さんが撮ったジョン・レノンが赤塚不二夫原作「おそ松くん」のいやみがする「シェー」のポーズの写真は特に有名になった。ジョンの「今、日本で何が流行っているの?」という問いから生まれた写真だった。

星加ルミ子さん

波紋を呼んだ「キリスト発言」
 その年の夏には北米14都市を回るツアーが予定されていた。ブライアンの覚えめでたい星加さんと長谷部さんは同行取材を許された。しかし、暗雲が立ち込めていた。というのもジョンの「ビートルズはキリストよりも人気がある」という発言が大きな波紋を呼んでいたからだ。
 「特に保守的な南部や西部では反ビートルズ運動が広がり、レコードや雑誌やポスターなどが燃やされていたのです。着いてからエプスタインに聞いて見ると「みんなやると言っているし、安全対策も万全にしている」という。でもぼくだけは逃げ出したいよとも言っていました」。
 初日のシカゴ公演が終わって楽屋に4人が戻って来た。「するとポールが「絶対に撃たれると思った」というのです。あとで分かったのですが、フラッシュを焚いて写真を撮った人がいて、それを見たポールがライフル銃だと思ったのだそうです。ポールは「キリストの話をしたのはジョンなのになんでぼくが撃たれなきゃならないんだ」とジョークを言っていました」。

星加ルミ子さんと李世福さん

 67年夏、星加さんたちの力になってくれた「5人目のビートルズ」ブライアン・エプスタインが急死した。その後、同年9月下旬、ロンドンで星加さんはビートルズとの会見に成功した。スタジオで取材をしたのだが、ポールと他の3人がちょうど「フール・オン・ザ・ヒル」を制作中だった。

星加ルミ子さんと司会の前田健人さん


 69年は彼らと「すれ違った」。「私は間違いなく解散すると思っていました。ミュージックライフはファン雑誌だったので、ビートルズがいなくなった時の代わりをどうしようかとなりました」。次世代アーティストへの取材のためロンドンに滞在中、ビートルズ「最後のライブ」と遭遇した。

ビートルズ最後のライブ
 実際の演奏を終えると、サヴィル・ロウのアップルビルの屋上から4人が階段を降りてきた。「最初に降りてきたはポールだった。厚いコートを羽織っていた。私がロビーの真ん中に立っていると「ロンドンに住んでるの?」と冗談を言っていなくなった。次にジョンが周りも見ずに降りてきました。それからリンゴ(・スター)とジョージ(・ハリスン)が来ました」。
 司会の前田健人(まえだ・けんと)さんが彼らの印象を訊いた。すると星加さんは言った「ジョンはとっつきにくかった。でも雑談しているとすぐに入ってきて「ぼくも日本語話せる」といい、日本語のイントネーションを真似しました。そういうジョークをにこりともせずに飛ばしていました」。
 「そして一番面倒を見てくれたのはポールでした。全部仕切ってくれました。ポールは打てば響く人で、頭がいい人で何をどうするかを把握していました。マネージャーかと思うぐらい指示を出していました」。
 リンゴについては「一番年上だから、ビートルズに一番最後に参加したことをわきまえているからか大人の対応が出来る人です。気配りがあって、でしゃばらずに、しかし聞かれたらきちんと話してくれる。例えばリンゴを取材していても、他のメンバーが空くと、「ほらポールが空いているから行っておいで」とか言ってくれる人です」。
 ジョージは本当に音楽が大好きな人だったと星加さんはいう。いつもギターを抱えていてポロンポロンと弾いていた印象だという。ただ、星加さんは「取材はしにくかった。何か聞いても「Oh Yeah」とか「sure」って言うだけ」であまり話してくれなかったと語った。 
 80年12月、ジョンが凶弾に倒れた。星加さんは回想した「嘘だと思いましたね。NHKのニュースをつけると取り上げられていた。ただ助からなかったことは分かったものの私にはよく分かりませんでした」。
 星加さんのトークが始まる前には「世福龍」の演奏があった。ギターが李世福さんとCHACO、ベースがミック、ドラムは「友」だった。

ミック、CHAKO、友さん、李世福
星加ルミ子「私が会ったビートルズとロック☆スター」シンコーミュージックエンタテイメント
イベントスペース「李世福のアトリエ」


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